、むずかしい問題で頭を捻《ひね》っている時の習癖《くせ》で、碁盤を前に、独り碁……と言っても、法どおり石を置いて、攻め手守り法《て》を攻究《こうきゅう》しているのではない。ただ、黒白の石を掴んでサラサラと盤に落とし、あるいは黒を動かし、時には白石を種々に移して、言わばでたらめで――そのあいだには、これも沈思《ちんし》の時の癖で、越州《えっしゅう》はしきりに爪を噛んでいるのだ。澄々《ちょうちょう》たる碁石《いし》の音を楽しんでいるようにも見える。こうして何か考え事があるとき、盤に向って碁を弄《もてあそ》びながら、その間に策を講ずるのが、この大岡越前守忠相のやり方だった。
 で、そうして独り何事か考えに沈んでいるところへ、呼びにやった金山寺屋の音松が来たのだ。夜、急にお奉行様のお役宅から、お召立《めした》てになったのだから、一体何の御用だろうと思う先に音松は、もう自分が罪人にでもなったようにがたがた震えている。町の一岡っ引きのところへ、お奉行様からお使いを戴くなどと、まさに前代未聞《ぜんだいみもん》に相違ない。すっかり恐縮して外桜田《そとさくらだ》のお屋敷へ参上してみると、誰かお手附《てつき》の御用人にでも会って何か話があるのだろうと思って来たのが、直接殿様にお眼通りするのだという。狼狽《ろうばい》の極《きょく》、逆上《ぎゃくじょう》したようになっている音松を案内して、若侍は、予《かね》て命令《いいつ》けられていたものらしく、ドンドン奥へ通って行く。生れてはじめてこういうお屋敷の奥へはいったので、音松はキョロキョロしながらついて行くと、人の気はいもなくシインと静かである。これは、何事か密談があるとみえて、越前守は人を遠ざけて音松を待っているのだが、やがて、お廊下の突き当りの一室の前へ出ると、室内《なか》にいらっしゃるからあけてはいるように、……そう眼顔で知らせて若侍はまるで逃げるように、サッサと引っ返してしまう。
 ひとり残《のこ》された金山寺屋音松である。
 どっちを見ても、暗いお部屋が並んでいるだけで、人影はおろか、物音一つしない。ただ、眼の前の障子に明るい光りがさしている。この室内《なか》に、南町奉行大岡越前守忠相様がいらっしゃる――そう思うと音松は、そこのお廊下にべったりすわったきり、すっかり固《かた》くなってしまって、中なかその障子に手をかけることが出来ないの
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