け、ついに大事……あの刃傷《にんじょう》とこの騒動を捲き起すに到ったのだ。
 自分にも、責任がある。今となって、長岡頼母はそう思う。
 が、責任はあっても、それとこれとは違う。一番首、二番首、三番首、四番首――大迫玄蕃殿、浅香慶之助殿、猪股小膳殿、松原源兵衛殿……そして、この、吹きまくる大暴風雨のような恐慌《きょうこう》の最中に、又してもこの脅威挑戦《きょういちょうせん》――忌中だが、こんどはじぶんの前に現れたのだ。
 忌中、とは何だ?
 生きている、死人だというのかッ!
 五番首は、この長岡頼母だというのかッ!
 何を! 四番首までは知らぬこと、五番目のこの首には、生憎《あいにく》と、いささか筋金が入っているのだ。神尾喬之助、如何に豪剣なりといえども、よも鬼神羅刹《きじんらせつ》の類《たぐい》に化した訳ではあるまい。そう容易《やすやす》とこの首を渡しはしないのだ。来るがよい! 面白い! 来いッ……。
 と、心中に叫び揚げて、絡《から》むような恐怖を払いすてた長岡頼母である。別室には、二十余名の同僚も集っているのだ。ナアニ――! と、急に平素の豪快な頼母に復《かえ》ったかれ、
「いつ書いて貼ったものか、見てやれ」
 つぶやきながら、手を伸ばして忌中の文字に触った。と、どうだ! 指さきに墨がつくのだ。字が濡れている。まだ乾《かわ》いていないのだ……いま書いて、貼ったばかり!
 とすると、本人はまだここらにいるに相違ない。そうだ。この室内に、この、深として燭台の燃えさかる居間の中に――頼母は、引き抜いた一刀を右手に構えて、全身の神経を緊張させながら、一分、二分、三分、五分、一寸、スルスルと障子を開けにかかった。

      三

 スルスルと障子を開けて顔を出した金山寺屋の音松に、忠相《ただすけ》は、にこやかな笑顔を向けて、声だけは、叱咤《しった》するように激しかった。
「あとを閉《し》めてはいれ」
 江戸南町奉行《えどみなみまちぶぎょう》、大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》忠相である。外桜田《そとさくらだ》のお役宅《やくたく》、書院作りの奥の一間だった。
 夜である。きょう数寄屋橋畔の奉行所から帰った忠相は、何か思うところあってか、日本橋長谷川町へ下僕を走らせて、同町内の目明し親分、金山寺屋の音松をお呼び立てになったのだった。それきり自身は、この奥の書院に端坐して
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