す、へえ」
それには答えず、知らずのお絃が、
「ああ泣いちゃった……」
はいこんで、バラリ垂れを下ろすと、行くぜ! あい来た、で三梃、トットと神田へ帰って来た帯屋小路――よろず喧嘩買入申候の看板に、御神燈《ごしんとう》の灯が、ゆらゆらと照り映《は》えている。
四
喧嘩渡世の家の壁に、長ながと貼り出してある一枚の巻紙、ズラリ十七人の番士の名が書いてある。その中の二つ、大迫玄蕃《おおせこげんば》と浅香慶之助《あさかけいのすけ》のところへ、いま二人を首にして帰って来た神尾喬之助が、墨くろぐろと抹殺線《まっさつせん》を引いて、下に、一番首二番首と書き入れを済まし、さて、このつぎの三番首は誰にしたものであろうか……まことに不気味な順番で、ひそかに候補にあげられる者こそ災難だが、喬之助が、端《はし》から名前を黙読しながら、アイツにしようかコイツにしようかと思案しているところへおもてに三梃の駕籠が止まって、その一つから園絵が下りた。
元日以来会わずに来た、恋し恋された若夫婦である。二人のおどろき、よろこび、その後の物語、昔の作者なら、ここんところは、読む者よろしく推量あるべし……とやるところだが僕も一つ、この手を用《もち》いよう。
ただ、これがすべて喧嘩屋夫婦の扱いと知って、喬之助は、何にもいわぬ、これだ――と掌《て》を合わせんばかりに感謝する。園絵は、はいってみると、そこに喬之助がいて、いま一緒に来た駕籠の一つからも喬之助そっくりの男が立ち出《い》でたので、ビックリして二人を見較《みくら》べている。これには何か仔細《しさい》のあることであろう、あとでゆっくり訊《き》こうと、園絵はそのまま喬之助の前にガックリ崩れて、
「…………」
言葉はない。泣き伏した。これが西洋物だと、何か洒落たことをいいながら、人眼《ひとめ》もなく抱きつく。キッスする。いとも華《はな》やかなる場面だが、たしなみの深かった昔の日本人だから、そうは行かない。
それでも、会いたかった見たかった……情緒纏綿《じょうちょてんめん》たる光景なので、ついポッカリ口をあけた茨右近が、自分の家だけれどはいっていいのか悪いのか、土間に立ってボンヤリ眺めていると、御意見無用、いのち不知と二行の文身《ほりもの》の読めるお絃の右手が伸びて来て、つ[#「つ」に傍点]と右近の耳を掴《つか》んだ。
「何だい。
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