あったもので、人の危難《きなん》はわが楽しみ、まるで芝居の幕があくのを待つような心もちで、
今にも何か起らねえか――耳をすましている。
その鼻っ先だ。
行燈《あんどん》が一つ、上《あが》り端《ばた》に置いてあるだけで、そこらはうす暗い。その半暗《はんあん》を乱して、パッ、奥の廊下を渡って来た風のような人影がある。さア出た! というんで、往来をめざして逃げ出そうとするところへ、まるで猫のよう、あし音もなく追いついて来た人――というより、物の感じだ。その物が、玄関の前で、うしろから長庵を呼び止めた。
「下郎《げろう》か」
「はい」長庵は、足をとめた。膝《ひざ》ががくついて、駈《か》け出そうにも言うことをきかない。猛犬に踵《かかと》を嗅《か》がれる思い。あれだ。村井長庵、腋《わき》の下に汗をかいて、とにかく歩を控《ひか》えた。が、ふり返るだけの勇気はない。真っ直ぐ向いて、前の暗黒《やみ》へ答えた。「はい、下郎でございます」
「当屋敷の下郎か」
「いいえ、近処の部屋におります渡り者の折助でございます」
「しかとさようか」
真っくらで、おたがいに服装《なり》までは見えないのだ。
「相違ござりませぬ」
いやに硬《かた》くなって受け合った。と、その背後《はいご》の物がニヤと笑ったようすで、
「手を出せ、貴様に好い物をとらせよう」
よい物と聞いて、貰うものなら何でもという長庵、くるり向き直って伺いを立てて見た。
「旦那様はどなたさまで――」
すると、のんびりとした声で、
「神尾喬之助である」
という返辞《こたえ》に、わッ! と胆《きも》を潰《つぶ》した長庵が逃げ出そうとすると、
「これをくれてやる。」
何やら突《つ》き出した。受け取らざるを得ない。逃《に》げ腰《ごし》で、手を出した。渡されたのは、丸い大きな物である。濡れた毛のようなものが手にさわって、全体が生あたたかく、妙にぬらぬらしている。
かなり重いのだ。
「ありがとうございます」
何だか知らないが、貰った物だから、礼を述べているうちに、渡した相手は、つぶて[#「つぶて」に傍点]のように門を走り出て、瞬《またた》く間に闇黒《やみ》の底に呑《の》まれてしまった。
と、この時、屋敷の奥座敷の方に当って、一時に沸《わ》き起った人々の叫び声だ。
「やッ! 殿様が、殿様が……」
これでわれに復《かえ》った村井長
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