浪人だったてえじゃアないか。だから、滅多なことを言ってくるもんじゃアないよ。かかりあいで仲に立った私も、こんなに困ったことはありアしない。おかげで当分、何か埋合《うめあ》わせの功名をするまでは、この長庵まで、お屋敷へ顔出しが出来なくなってしまったじゃアないか。これからあんな出鱈目《でたらめ》な口をきくのは止して貰おう」
今日は下谷長者町の筆幸《ふでこう》へ出かけて行って、そっと息子の幸吉にだけ会い、こういって散々《さんざん》怒《おこ》り散らした村井長庵だ。そんな筈はないがなア。たしかにあれは神尾喬之助で、壁辰の父娘《おやこ》のあいだに、こんな話もあったのを聞いたのだ、という幸吉の陳辯《ちんべん》には耳をも籍《か》さず、
「とにかく、今後は気をつけて貰いましょう」
と、プリプリして筆幸の店を立ち出でた村井長庵は、ちょうどその時、お絃、右近の喧嘩屋一行の駕籠と同じ途を、麹《こうじ》町平河町の自宅へ帰路《きろ》についていた。
この村井長庵。
今度筆屋が、筆紙類のみならず、ひろく油渡世《あぶらとせい》のほうにまで商売の手を伸ばすにつけては、いま、お城のそのほうの御用を一手に引き受けて来た神田三河町の伊豆屋伍兵衛が、婿の神尾喬之助の一件で失敗《しくじ》っている時だから、この機を利用し、御書院番頭の脇坂山城守を通して頼みこめば、必ず伊豆伍を蹴《け》落し、伊豆伍に代ってお城の油御用を仰せつかることが出来るというので、長庵は、筆屋幸兵衛に頼まれて、脇坂山城守へ、言わば賄賂《わいろ》の橋わたしをしているのである。
筆幸は、千代田の御書院番へ筆紙墨の類を入れて来て、山城守とはお近づきに願っている。かれは、伊豆伍と同じ、越後《えちご》の柏崎《かしわざき》出の商人で、同郷なればこそ一層、昔から伊豆伍と筆幸は、激しい出世競争の相手だったのだ。その伊豆伍を倒す絶好の機会である。ことに、山城守は、おのが部下の随《ずい》一を斬って逃げて、その後も、自分を愚弄《ぐろう》するがごとき神尾喬之助の態度に、躍起《やっき》となっている。この騒動《そうどう》の原因は、すべて喬之助妻園絵こと伊豆屋のお園から出ているのだから、伊豆屋をも快《こころよ》く思っていないことは勿論である。そこへ、山城守には覚えめでたい長庵が間に立っていてくれるのだから、この話はもう成り立ったも同然だと、筆屋幸兵衛は、明日にもお
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