金創十字に斬り苛まれた醜い容貌は、忍ぶ。
忍ぶどころか、何もかもこの弓削家のためにと――、もったいなくさえ思って、ひそかに蔭で、良人大次の背へ手を合わして来た千浪ではあったけれども――その顔とともに性格まで一変した大次郎を、千浪、どうしても愛することはできなかった。
彼女の悩みは、そこにあった。
人間というものは、顔によって、こんなに気質《きだて》が変るものであろうか。その物凄い相貌のままに、まるで鬼のような心になった伴大次郎――伴法外を、千浪が、愛そうとして愛し得なかったのに無理はないのだった。
大次郎もまた――。
「かような顔になった拙者を、そちは、怖れておるに相違ない。いや、憎んでおる! 嫌っておる! それが拙者にはよくわかる!」
と昼夜、千浪の顔にこの言葉を吐きかけて、千浪を泣かせ自らも苦しんだものだったが。
稽古振りまで、がらり違ってきて、竹刀の先が火を噴くような激しさ、荒さ。
それは弟子どもへの薬になるとはいえ、この大次郎の立合いの鋭さは、そういう意味のものではなかった。
炎のような憎悪!――普通の容貌《かお》をしている者への、強いにくしみ――それが、大次の眼光に、道場での木太刀取りに、突き刺すように感じられる。
こうなると、下谷練塀小路《したやねりべいこうじ》の法外道場は淋れて往く一方。
そして、それは江戸の街々に、秋も深まろうとする一夜だったが、大次郎は、風に捲かれる落葉のごとく、瓢然と道場を出奔したのである。
見てはならない自分の顔、下山以来、鏡というものを避けていたじぶんの相貌を、金盥の水かがみに、はっと、見てしまったのが動機となって。
「げっ! か、かほどまでに変っておろうとは! これでは、千浪! そちに嫌われても詮ない道理。うは、ははははは、いや、夢を見た、夢を見た――。」
と伴法外――否、法外の名は先師弓削氏の霊に返戻《へんれい》して、すっぱりとまたもとの伴大次郎、あの三国ヶ嶽のふもと、山伏山の陰なる廃村|田万里《たまざと》の郷士あがり、天涯孤影、肩をそびやかして、恋妻の許を去ったのだ、大次は。
躓《こ》けつ転《まろ》びつ、裾踏み乱して嗚咽《おえつ》しながら、門まで大次郎のあとを追って出て千浪の耳に聞えたのは、そこの練塀小路の町かどをまがって消えて行く、かれの詩吟の声のみだった。
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「風過ぎて風|光《ひかり》を駐《とど》めず
雁《かり》去って雁|影《かげ》を残さず」
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朗々たる歌声、闇黒《やみ》に呑まれて。
浅い縁《えにし》。
短い夫婦《みょうと》の契り――ほんとに、夢だったかもしれないと、得耐《えた》えず門柱に凭《よ》りかかった千浪は、いつしか地に伏して泣きじゃくっていたのだった。
白絹の紋服。
おなじく白の弥四郎頭巾に、妖刃女髪兼安を腰にぶっ差して。
あたらしい顔とともに、新しい人間に生まれ変った小鬼大次郎、胸中ふかく蔵するのは何か?
が、こうしてふっつりと煩悩《ぼんのう》の綱を断ち切った気の伴大次郎も、畢竟、眼に見えぬ煩悩の綾糸に手繰られ、躍らせられているのではあるまいか。
所詮、生そのものが煩悩。
生きているあいだは、人間、煩悩の児なのかもしれない。
それはそうと。
ふたたび言う。この夜から、八百八街の辻々に、完全に同じよそおいのふたりの祖父江出羽守《そふえでわのかみ》が出没することになったので。
二人白衣――。
いずれをいずれとも見わけがたい。
あの、三国ヶ嶽山上の七年目の会合と、月の笠の予言した阿弥陀沢名物お山荒れと、見てはならぬ女髪剣のみだれ焼刃を覗いてしまった大次郎と、猿の湯の猿を斬ってその血に走る刀で、弓削法外先生を斃した、煩悩魔祖父江出羽と――果して! 渦紋は擾乱《じょうらん》を呼び、事件は展開を予約して、場面はいま、大江戸に移っているのだ。
大次郎を失った千浪のこころ――。
そしてまた。
七年前に虐君出羽への復讐を誓って、名、金、女の三煩悩を追って三つに散った山の若者のうち。
今。
金を受持った江上佐助は、文珠屋佐吉と名乗る為体の知れない人物となり、もっとも危険な煩悩、おんなの係の有森利七はその女毒に当って意地も甲斐もない巷の遊芸人、恋慕流しの宗七と化し去り――ところが、この宗七、じつは、十手をお預りして黒人《くろうと》仲間に隠れもない捕物名誉だとのこと。
その宗七の留守中に、女房お多喜が富ヶ岡八幡から拾って来た美しい狂女を見て、三国ヶ嶽から帰宅《かえ》って来た宗七、持前の頓狂な大声で、叫んだものだ。
「ややっ! あなたは田万里の――! あの伴、伴大次郎の姉うえ、小信さまでは――。」
やぐら下宗七宅の場
土橋、仲町、おもて櫓、裏やぐら、裾つぎ、網打場、大新地、小新地――ふか川。
あそびの世界。
価い、昼夜十二匁ずつの五つ切り、あるいは昼二歩二朱、夜一分、ひと切り二朱など、さまざま。
栄喜横町、仲町の尾花屋、大新地の大漢楼《だいかんろう》、五明楼《ごめいろう》、百歩楼――屋根船を呼ぶ舟宿の声。
この二枚証文の辰巳七個所の色まちのなかで。
矢倉下――恋慕流し宗七とお多喜の住いは、ここの路地奥にあるのだ。
格子から土間を一跨ぎに、上ったところが六畳ひと間っきりの家で、表看板商売物の三味線が懸かっているだけ、身を秘しての捕物稼業だから、お役風を吹かせる朱総《しゅぶさ》の十手やとり繩などは、壁にぶら下がっていない。
其室《そこ》の、うす赤く陽に染んだ畳に。
惨めに狂っている大次郎の姉、小信を中に挾んで、お山帰りの宗七とお多喜、じっと顔を見合っている。
出しぬけの良人の言葉に、お多喜は愕きの眉を上げて、
「まあ! お前さんはこの女《ひと》を知ってるのかえ。」
それには答えず、小信の横へちょこなんと膝を揃えて坐った宗七は、
「小信様! お見かけするところ、あなたあ変《ひょん》な御様子だがこりゃあまあいったいどうなすったというので――あの出羽、いや、祖父江出羽さまのお眼に留まって、田万里から伴れ出されてから、今までどこにどうしてお暮らしなされた――。」
と彼は、真剣の色を面《おもて》にあらわして、小信の顔をさし覗くのだった――。
相手は、うつ向いて袂の端を弄んでいるきり、答えない。
お多喜は先刻《さっき》、八幡のお社の縁の下で、この小信を発見《みつ》けて家へ伴れ帰った顛末を話した後、
「気が違っておいでなんだもの。何を訊いても、分別《ふんべつ》のつくわけはないよ。それにしてもお前さんは、あたしの識らないことばかり言い出すんだねえ。祖父江出羽守だの、田万里だのって――この女は小信さんって名で、その伴何とかさんの姉さんだって。」
お多喜が不審に思うのは当然で、有森利七の宗七は、じぶんの出身については、女房のお多喜にも何ひとつ明かしてないのである。
夫婦《ふたり》の会話《やりとり》をぼんやり聞いている小信は、まるで薄桃色の霞のなかに生きているような気がするだけで。
何の記憶も、意識もない。
だが、いま――。
田万里、祖父江出羽守、伴大次郎――という名を耳にしたかの女のこころに、朧気《おぼろげ》ながら、恐ろしい思い出が甦《よみがえ》ってくる。
さっきのお多喜が、八幡の縁の下に寝ていたこの小信を見つけた時、小信が独りでに口走った言葉、
「ほほほほほ、おかしいねえ。殿さまが女に斬られたりしてさ。」
といったのは、あれは事実なので。
狂人ながら、絶えず心にあることを、思わずひとり語《ご》ちたというわけ。
それは。
巻狩りの殿の眼に留まって誘拐され、彼女が田万里を去ってから、もう七年になる。恐怖と恥じと怨恨との連続だったさながら夢魔のようなこの七年間――。
自分は出羽守の一行に取りまかれてこの江戸の下屋敷へ送られて、そこで、ほかの多くの妾てかけとともに日夜殿の玩弄に身を任せなければならないことになったが――その、山を下りる時、かすかながら覚えているのは、父の伴大之丞が自分を助けようとして、単身、出羽守狩猟の人数へ斬り込んで無残な切り死をしたことと。
それから、後で風の便りに聞けば、この娘の悲運と老夫の横死を嘆き、主君出羽を恨みにうらんで、母はついに出羽の藩地、遠州|相良《さがら》の空を白眼《にら》んで自害して果てたという。
父母の仇、じぶんの敵!――七年間、耐え忍びながら機会を窺っていた小信は、とうとう、今から三月ほど前の月のない夜中に、この江戸の下やしきの寝所で、思いあまって出羽守に斬りつけ、混雑に紛れて屋敷を逃亡したのだった。
傷は、背中に深く一太刀――たいしたことはなかった。出羽は、平気だった。血の垂れる肩下へ手を廻し、立ち騒ぐ侍臣たちを制して、
「おれを斬るとは面白い女《やつ》、ははははは――。」
と、いつものように、たかだかと哄笑《わらい》を噴き上げていたが。
美しき残骸
豪放なところのある出羽守である。捕まれば、女の命はないにきまっている。殺すのも不憫《ふびん》と思ったものか、逃がしてやるつもりだったのだろう。
「なんのこれしきのことに、騒ぐなっ!」
家臣らを押さえている間に、小信は闇黒《やみ》を縫って庭伝いに屋敷を落ち延びたのだ。
大名が寝所で妾に斬られた。人に話もできない。この噂が世上に拡まれば、殿様はもちろん、祖父江藩の名折れになるばかりか、公儀の耳に入ったとなると、ただではすまない。どのみち、いい物笑いの種を播くのは知れたことなので、小信を斬ればその評判も立ちやすいと、そこですべてを内証に葬る考えから、出羽守、とっさに思案して家来たちを取り鎮め、それとなく、彼女に脱出の機会を、与えたのかもしれなかった。
そして、極秘のうちに背の刀傷を癒すべく、山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、気に入りの側近のみを伴《つ》れて人知れず、金創に霊顕ありとすすめる者のあったままに、あのあみだ沢の猿の湯へ湯治に行ったのだった。
御微行《おしのび》――どころか、身分を隠しての逗留なので、江戸を出てから帰るまで、ああして白の弥四郎頭巾に、すっぽり面体を押し包んで。
内に猛り狂う煩悩を宿し、外に、おのれを仇とつけ狙う三つの煩悩の鬼ありとも知らず、祖父江出羽守、千浪のやさしい顔姿に煩悩の火を燃やした末、弓削法外先生を討ち果たし、二重に、伴大次郎に、かたきとつけ廻されることになった。
奇しき因縁――とは言っても、伴大次郎、無論あの白の弥四郎頭巾を祖父江出羽守とは知る由もなかった。
一方、出羽の屋敷を逃れ出た小信は――。
怖いもの知らず。
殿様に斬りつけた時から、可哀そうに小信、すでに狂っていたに相違なく、とにかく、跣足《はだし》で街に走り出た彼女は、もう立派にたましいの抜けた残骸だった。
活《い》けるしかばね――となって、あれからこっち、材木置場や町家の檐下で、寺社の縁などに雨露をしのいで江戸の町まちを当て途《ど》もなしにほっつき歩き、きょうこうしてはからずもお多喜の眼に触れて、その宗七の家へ引き取られたという仔細《いきさつ》。
が、この三月まえの出来事はもとより、七年来の悲しい歳月は、いま小信の意識《こころ》の底に埋められているだけで。
宗七とお多喜が両方からかわるがわるいろいろ尋ねても、何の反応もないので、ふたりともしまいには黙り込んでしまった。
お多喜はほっと深い溜息を洩らして、宗七へ向い、
「どうしたもんだろうねえ。しばらく家に置くとしても、大家さんへ話しておかなくちゃあ悪いだろうねえ。そんなことをして、面倒な係合いになっても詰まらないし――。」
何か考えていた宗七が、ぽんと小膝を打って起ちかけた。
「うむ、そうだ! これの兄さんで伴大次郎、じつあ三国ヶ嶽でその旦那に会って来たんだが、その節の話じゃあ、なんでも下谷の練塀小路、法外流とかいう剣術《やっとう》の道場にいると聞いたが――。」
「この女《ひと》の兄さんがかえ。そりゃあお前さん、うってつけの話じゃあない
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