、どこにいるのか知りませんけれど、しっかり護ってやって下さいまし。」
とお多喜は、まるで相識《しりあい》の人に話しかけるような心易《こころやす》い言葉で、八幡様に向い、なおも口の中で、
「いえね、十日ほど前、どこへ行くとも言わず、着のみ着のままでぶらりと出て行ったきりなんです。どうせどこかへしけ込んで現《うつつ》を抜かしているにきまってます。そりゃあね、女狂いはあの人の病ですから、あたしゃとうから諦めてはいますけれど、ただ一日も早くあたしという女房と、この深川の家を思い出して、帰って来ますようにお願いいたします。遠くへ突っ走りませんように、なにとぞ足どめを――。」
森閑とした朝の神社だ。奉納の石燈籠、杉並木、一直線の長い参詣道――人っこひとりいない。
粋《いき》な浴衣に、ずっこけに帯を結んで、白い顔に眉を寄せて一心に拝んでいるお多喜、凄いほど眼鼻立ちの整った、二十五、六の女である。宗七とともに恋慕流しの三味線を引いて、街から街と流し歩くのが稼業《しょうばい》で。
その、良人《おっと》で、商売の相手の宗七がもう十日も家に寄りつかないので、思いあまったお多喜、こうして近くの八幡様へ、毎朝、宗七の足どめを祈りに来ているのだった。
最後に、調子よく柏手を打ったお多喜が、くるりと踵をめぐらして社前を立ち去ろうとすると、
「ほほほほほ――。」どこか近くに、女の笑い声がする。
お多喜は、耳を疑って辺りを見まわした。
笑い声は、どうやら社の縁の下から響いて来るらしい。ぎょっとしながら、お多喜がそっちへ廻って、高い縁の下を覗いてみると――女が寝ているのだ。
「なんだい、お前さん。お乞食《こも》かえ。」
気味の悪いのをこらえて、お多喜はそう声をかけたが、女は、答えない。
向うむきに寝ているのである。
地べたに莚を敷いて、髪を振り乱し、垢《あか》とほこりに汚れた着物を着て、跣足《はだし》だった。
顔は見えないが、二十八、九、優形《やさがた》のようすのいい女なのだ。
「ほほほほほ、おかしいねえ。殿様が女に斬られたりしてさ。」
と女は、独り言をいって、また笑った。
さっきの笑いの出どころが、この女とわかると、お多喜はすっかり安心して、
「お前さん、何をひとりでぶつぶつお言いだえ。」
と覗きこんだが、今の、殿に斬られて云々《うんぬん》という言葉がちょっと耳に触って、お多喜は解せぬ面持ち、
「何を言ってるんですよ。寝言をいってるのかえ。」
すると、女、犬のようにざかざか這って、縁の下を出て来たかと思うと、お多喜の前にすっくと起ち上って、
「ほほほほほ! あなたのお顔に、蝶々がとまっていますえ。」
お多喜は、ぎょっとして飛び退《す》さった。
女は、お多喜の顔とは別の方角へ、おろおろと落ちつかない眼を据えて、
「あれ、あれ! 蝶々が二つも! 女蝶男蝶! ほほほほほ――。」
白い脛も露わに、よろよろと歩きだしてくる。さながら蝶を追うような舞いの手ぶりよろしく。
保名狂乱《やすなきょうらん》――ではないが、女は、無残に狂っているのである。
人品、言葉つきも卑しくなく、相当の生活《くらし》をした女に相違ないが、いくらか、これにはよほど深い事情がなくてはかなわぬとはいえ、なんという気の毒な――と、お多喜は、しばし宗七のことを忘れて、その狂女のありさまを打ち守るのであった。
銀磨きお預り十手
お参りに行って会ったのだから、これを助けるようにという神様のお示しであろうと、お多喜は、嫌がる女を伴れて、早々に櫓下の自宅へ帰って来た。
格子をあけると、狭い土間の取っつきに、夏なので障子をとり払い、すだれが二枚、双幅のように掛かっている。
宗七と二人きりの、小さな家で、雇人を置く生計《くらし》でも、身分でもない。
「さあ、あなた、ずっとお上り下さいまし。ずっとと申しても、この一部屋なんですけれど。」
そう言ってお多喜は、女を抱きかかえるようにして上った。
畳の焼けた六畳の間。壁に、三味線が一つ、ぶらりと下がっているので。
「あなたはほんとにここを、御自分のお家と思召して、ゆっくり寛《くつろ》いで下さいましね。」
狂女は、わかったとみえて、お多喜のまえに横ずわりにすわって、ぼんやりとそこらを見まわしている。
「お名前は何とおっしゃいますの?」
子供に言うように、お多喜はゆっくり話しかけてみたが、狂女はやはり答えないで、今度は、うつ向いて、さめざめと泣きだすのである。
気ちがいだとは思っても、お多喜は呆気に取られながら、
「お宅はどちらですか。」
もとより、通じようはずはない。
自宅《うち》へは連れて来たものの、人手のないところへこのまま置くわけにはゆかず、それかと言って、抛りだすような無情なこともできなくて困りはてて、お多喜がじっと女の顔を見つめると――。
いま初めて気がついた。
たましいの抜けた眼をして、顔ぜんたい、汗と砂ほこりにまみれてはいるが、狂女は、この深川の羽織衆の中にもそうたんとはあるまいと思われる美人で、白い膚、鈴を張ったような眼、じつに高貴な面ざしなのだ。
「どこの人だろう? まあ、可哀そうな――当分うちに置いて、世話をして上げてもいいけれど、知らせなかったと言われて、あとで恨まれてもつまらない。親兄弟はないのかしら。」
お多喜が、狂女の顔を見つめて、こうした物思いに耽っているとき、土間に人かげがさした。
見ると、宗七だ。
宗七が、今ぶらりと帰って来たところだ。
出る時着て行った浴衣が、すっかり旅に汚れて、どんよりと、疲れた顔をして立っている。
一眼見るとお多喜は、狂女をそのままに、転がるように上り框《がまち》へにじり寄って、
「お前さん! なんだい、いまごろ、妙な顔をして帰って来てさ。」
宗七は、お多喜の前へ出ると頭が上らないらしく、それに長らく家を明けた弱味もあるので、
「いま帰ったよ。」
「今帰ったよもなにもないもんだ。いったいどこへ行っていたのさ。」
「山へ行って来たんだ。」
じっさい宗七は、いま三国ヶ嶽から帰ったところなのである。
が、何も知らないお多喜は、そんなことは頭《てん》から信じないので、
「山だって? 山とは何のことさ。ぶらりと家を出て、山へ行く人もないもんだ。いいかげん人を馬鹿にしたことを言うがいいよ。」
「しかし、そんなこと言ったって、真実、まったく、山へ行って来たんだからしようがねえ。」
「まあ、そんな詮議はあとでしてやるから、さっと上ったらいいじゃないか、じぶんの家じゃないの? 忘れたの?」
とお多喜は、口ではぽんぽん言いながらも、宗七が帰って来たことだけで、もうすっかりよろこんでいるようす。
足のほこりを払って上って来た宗七へ、
「お前さん、八丁堀の旦那から、毎日のようにお迎いだったよ。なんでも、またあの押込みが江戸中を荒らしだして――。」
「え?」
と言って、お多喜を振り返った宗七、それは、今までの宗七とは別人のように見えた。
女たらしのほかは能がなく、女房に頭が上らないと見えた恋慕流しの宗七――じつは、辰巳の岡っ引として、朱総《しゅぶさ》を預っては江戸に隠れもない捕物名人なので。
いま、八丁堀からたびたび使いが――と聞いて、宗七、人間が変ったように、活気を呈し、顔まで引きしまったのに不思議はない。
「うむ、そうか。川俣《かわまた》様からお呼びか。」
と、きびきびした伝法《でんぽう》な口調――が、その眼がひとたび、そこにすわっている狂女へ行くと、お多喜の説明を聞きながらと見こう見していた宗七、やにわに、愕きのあふれる声で叫んだ。
「おお! あなたは田万里の――! あの、伴、伴大次郎の姉上――。」
街の小鬼
「どうもとんだことがあったものだ。」
「先生がやられなすったとは、ほとんど信じられん。」
「一刀のもとに先生を殺《や》ったということだから、その相手の白覆面の曲者は、よほど腕の立つやつに相違ないて。」
下谷の練塀小路、今は主の変った法外流の道場で、門弟たちが集り、わいわい話し合っている。
大次郎と千浪が、法外先生の遺骨を守って下山し、江戸へ帰って半月ほどしてからで。
武者窓から西陽のさす道場の板敷きで、またしても雑談に花の咲く話題は、いつも先師法外先生の最期の噂ときまっている。
稽古後。
「それはそうに決まっておるが、なにしろ先生も御老体のことだったからな。」
と、一人が言う。
ほかのひとりが、
「伴先生は、その時、現場にいあわせなかったのか。」
「そうと見える。なんでも、上の山とかへ一夜登っておった後のできごとじゃそうな。」
「伴先生と言えば、山から帰ってから、先生の稽古は滅法荒くなったな。」
「稽古ぶりも、まるで別人のようじゃ。」
「顔も別人――。」
「これ! それを言ってはならぬ。」
一同は、急に声を忍ばせて、
「しかし、えらい変りようじゃなあ。あれほど眉目《びもく》秀麗《しゅうれい》だった伴大次郎が、今はまるで鬼の面と言ってもよい。」
「山から帰って来られて初めて見たとき、おれは、化物ではないかと思ったぞ。」
「声が高いぞ。それが伴先生のお耳へ入ったら、貴様の首は胴へつながっておるまい。」
「いや、化物にしろ何にしろ、あの千浪さまを妻にして、これだけの道場を承け継いで見れば、決して悪い気持ちはすまい。」
「ところが、そのお嬢様と先生との間が、うまくいっておらぬのだ。」
「それはまた、どういうわけで――。」
「顔がああなってからの、先生のひがみだろうと思うのだが、かようになった大次郎を、そなたはまだ大切に思うか、慕っておるかと言って、毎日のように千浪さまを責めるのだ。このごろの千浪さまは、なみだの乾くおりもなく、まことにお気の毒な様子だ。」
「が、大次郎先生のお身になってみれば、それも無理がないのう。」
「ほら、聞えるだろう。かすかに、千浪さまの泣き声が――ああまた、無理難題を持ち出されて、困っておられるのだ。」
じっさい、あたりを憚《はばか》る低い啜り泣きの声が、廊下つづきの母家のほうから、あるかなしに伝わり聞えて来るのだ。
その母家――奥の書院で。
大次郎改め、二代目伴法外が、血相を変えて縁に立ちはだかり、その足もとに、眉のあとも青い若妻千浪が、泣き濡れて倒れていた。
伴法外は、片方の眼の上、顎、頬、額と、その他顔じゅういたるところに大きな傷を負って、傷口はもはやふさがっているとはいうものの、昔日の美青年の面影はすこしもなく、じつに、見る人をしてぞっとさせる、恐ろしい顔つきである。
顔とともに、その性格も一変したに相違ない。この日ごろ、ことごとに荒あらしい言葉を吐いて、やさしい千浪を苦しめ、苛《さいな》むのである。
「いやいや、何と言っても、こんな顔になった大次郎を、そちが守り通してくれようとは思われぬ。また、こんな化物が傍におっては、その方も飯がまずいであろう。私は、自決を考えておる。」
千浪は、なみだの下から、
「またしても、そのようなことを――。」
「ええいっ! 言うな。そちはわしに鏡を見せんように気を配っておるが、今こそこの顔を見てやるぞ。」
言ったかと思うと大次郎の法外、そこの縁にあった洗面の金盥を両手に取り上げ、さっそく水かがみ――。
ハッキリ映って見える恐ろしい己が形相!
「ぷっ! かほどまでに変っておろうとは!」
庭石に、はったと金盥を投げ棄てた法外。
――その夜である。彼が道場をも妻をも捨てて家出したのは。
白絹の紋つきに白の弥四郎頭巾。女髪《にょはつ》兼安を腰に。
この時から、江戸の巷に、二人の祖父江出羽守が彷徨《ほうこう》することになった。
風過ぎ雁去って
一つには、この自分――千浪のために、また父法外の仇敵である、あの弥四郎頭巾の一団とお花畑で渡り合って、全身満面に刀痕を受けた伴大次郎、改め二代法外である。相変《そうがわ》りのしたのも自分のせいと思えば、その恐ろしい顔も、千浪は、眼に入らなかったのだが――。
前へ
次へ
全19ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング