くないと、文珠屋佐吉、木の軒、草の深みを楯に、一行をつける大次郎を尾けて身を隠しながら、やっとこのお花畑まで来たので。
すると、この乱闘だ。
大次、いつの間にか腕を磨いて、おそろしい使い手になったものだ――と、われを忘れて見惚《みと》れていた文珠屋は、そのとき、わっと人声に気がつくと!
逃げ出したのだ、千浪が。
どういう隙があったのか、警戒の侍を振りほどいて、千浪が一散に駈け出している。
血なまぐさい光景に失神しそうなのだろう。無意識に、懸命に走りだしたらしい。それが、裾を蹴りひらいて、転《こ》けつまろびつ、佐吉の伏さっているほうへ駈けて来るのだ。
「あっ! 千浪さま!――。」
大次郎の大声がして、すぐ、左右を一気に斬り払い、と、と、とっと大次も、千浪につづいて走って来るのが見える。
「追うな! これ! 追うなと申すに! 雌蝶雄蝶だ。はっはっは、逃がしてやれ。」
出羽守の笑い声が、ばらばらと後を追おうとする中之郷、山路、北らの足をとめた。一同は抜刀をぶら下げたまま立ち止まって、去り行く大次郎のうしろ姿を、じっと見送っている。
こちらは、文珠屋佐吉だ。
猛獣のように藪かげに待ちかまえていて、来かかった千浪を、やっといきなり、横抱きに抱きかかえるが早いか、ほそい一ぽん路が反対側へ、ずっと木の間へ伸びている、そこを、佐吉、千浪の胴に片手をまわして急ぎだしたが。
「待たれい! 待てっ!」
うしろに、大次郎の声だ。今の野原では、むこうに小さく人かげが集《かた》まって、負傷者《ておい》に応急の手当てをし、下山の道をつづけるらしい。こっちへ来る気はいはない。
「待てというのは、わしかね? それとも、このお嬢さんかね?」
ぬけぬけと言って、文珠屋佐吉、樹の下の小径に振りかえった。
秋深く
陽は、高い。暑いのだ。文珠屋は、その陽のほうへ背を向けて、自分の顔を影にすることを忘れなかった。
が、そんな気づかいをしなくても、彼はつづら笠をかぶっている。また、その編目は粗《あら》く、なかの顔は透いて見えるけれど、大次郎は生死の血戦を経たあとで、蹣跚《よろめ》きそうに弱っているのである。笠の中の相手の顔になど注意を凝《こ》らす余裕は、なかった。
で、誰とも知らずの対応――。
「貴様も、その娘御を誘拐しようというのか。」
大次郎は、ざくろの果《み》のはぜたような、傷だらけの顔に、硬い微笑をつくって、片手に女髪兼安を引っさげたなり、前のめりに、佐吉の前へ来て立った。
いま文珠屋と言っている当年の江上佐助が、千浪を慕ってにわかに下山していることは、大次郎のあたまを去ったわけではないが、藤屋からあのお花畑までの途中、後にも前《さき》にも佐吉の影はなかったし、それに、佐助の佐吉が、こんな服装《なり》をしていようとは知らないから、大次郎は、行きずりの旅人と話しているつもりで。
「これが、眼に入らぬか。」
手の、大刀を振って見せた。
「大次郎さま、わたくしどうなることかと――それに、藤屋に、残っているお父さまの傷が気がかりで、肩を深く――。」
千浪が、気もそぞろに叫びながら文珠屋の手を離れて、大次郎のうしろに廻って立った。
「もはや大丈夫! これからすぐ藤屋へ引っかえしましょう。」
言いながら大次郎は、きっと、眼のまえの葛籠笠を覗き見て――山越えのやくざ者らしいがなぜ口をきかぬ?
「下らぬ真似を致すな。見逃してつかわす。果報に思え。」
言い捨てて、千浪を劬《いたわ》って立ち去ろうとすると、その大次郎の面前へ、文珠屋佐吉、すうっと脇差しを抜いて突き出した。
「おのれっ! やる気かっ!」
きものは一面に切り裂かれて、襤褸《ぼろ》を下げたような大次郎、かっとなって、抜身の兼安を取り直そうとすると、途端に、かれの眼が相手のさし出している小刀の斬《き》っ尖《さき》にとまった。
そこに、小さな刃こぼれが三つ並んでいるのは!――思い出す。
田万里の幼年時代に、佐助がこの刀で、森の立木を出羽守に見立て、めったやたらに斬り廻った時の疵《きず》あとだ。
「おお、江上――!」
思わず大次郎が叫んだ拍子に、そのわき差しをかざした文珠屋は、素早く、背後の沢へ身を躍らして――大次郎が駈け寄って、覗いた時、つづら笠と旅合羽は、傾斜に生えている木のあいだを、土煙りとともにずるずる踏みすべらして、谷底へいそいでいた。
あいかわらず、江上は――身が軽い――それにしても、あの風体で、今はどこで何をしているのか――大次郎は、苦笑を洩らしながら、
「文珠屋どのと言ったな。また七年後に、このうえの三国ヶ嶽で会おう。」
下へ向って、大きく叫んだ。
山彦の答えに混じって、佐吉の声が、かすかに上って来た。
「なあに、それまでに、今度は江戸で会わあ。娘は預けとくぜ。」
「お知り合いの方なのでございますか。」
「ふふん。」と大次郎は、遙か眼下の沢へ笑って、千浪へ、「いや、なんでもござらぬ。先刻追うて来る途中、ちょっと道で逢うただけのことで――それより、先生が心配でござる。だいぶん重傷《ふかで》のようでしたが――さ、急ぎましょう。」
二人は、手を取り合って、上の阿弥陀沢へ引っかえした。
不覚にも、女髪兼安が手近になかったためか、そして、出羽の刀が四足の血に滑っていたせいか、法外先生の傷は、思ったより深かった。
法外流を編みだした練塀小路の老先生が、あんなことで肩を割りつけられるようなことはないのだけれど――物の機《はず》みとでも言うのだろうか。
金創に霊験あるはずの猿の湯も、法外先生の傷にはきかなかった。
あの、白覆面の乱暴武士が、お猿さまを斬り殺したために、猿の湯は効能を失った――あみだ沢の里人は、ひそかにそう言い合ったが、事実そうなのかもしれない。
秋が来て、満山の紅葉燃ゆるがごときころ、老体の弓削法外はこの傷が因《もと》で、千浪と大次郎に左右の手を取られながら、にっこりと寂しく、息を引き取ったのだった。
それは、山々に秋が深まって、阿弥陀沢に霜柱の立った朝だった。
転身異相画
その法外先生が永遠《とわ》の眠りにつく時、枕辺の大次郎と千浪の手に、痩せ細った手を持ち添えて握らせ合い、
「改めて許す。今から、夫婦《めおと》じゃ。末長く、な。」
千浪は、父の背に泣き伏して、大次郎の眼からも、大きな涙が、その、顔ぜんたい繃帯に包まれた上を滴り落ちる。
「泣くな、千浪。命数をまっとうして世を去るのが、なんで悲しいか――大次、女髪兼安と、道場を譲るぞ。千浪を頼む。道場を、な、道場をわしじゃと思って、盛り立てて行ってくれい。」
「先生! あの白の弥四郎頭巾の武士を、必ず捜しだして、きっと仇敵《かたき》を討ちます!」
「先生ではない。父と呼べ、父と――。」
「父上! お恨みは、この大次郎がきっと霽《は》らします。」
女髪兼安の鍔を丁! と鳴らす。金打《きんちょう》して、耳もとに叫ぶと法外先生は微笑を洩らしたきり、それなり一言も口をひらかずに、逝《い》ったのだった。
村人の手で、遺骸は荼毘《だび》に付した。お骨を捧げて、今日は明日は江戸の道場へ帰ろうと思いながら、大次郎の傷の癒えも進捗《はか》ばかしくないので、二人はまだこうして、この猿の湯に逗留している。
なにしろ、手足に七カ所、胸に大きく一太刀、顔は、一ばんひどく、大小無数の斬り傷なので。
癒りが遅いのである。
床の間に、法外先生の遺骨を安置し、部屋の真ん中に寝床を敷ききりで、伴大次郎、毎日、寝たり起きたりしている。胸から手、足はもちろん、顔にもすっかり白い布を巻き包んでいるところは、あのいつぞやの白の弥四郎頭巾にそっくり――険しくなった双眼だけが、その繃帯の奥から覗いているのである。
夜など、この姿の大次郎にあの弥四郎頭巾を思い出して、千浪は、ひとり秘《ひ》そかにぞっとすることが多かった。
自分さえ、この七年目の会合に来なかったら、いや、じぶんは来ないわけにはいかなかったが、先生や千浪をお伴れしなかったならば、こんなことにはならなかったものを――そう考えると大次郎は、傷痕に錐《きり》を揉《も》み込まれるような思いで、一日に何度となく、床の間の骨壺へ掌を合わせる。
この自責の念が、夜となく昼となくかれを悩まして、自分で制しきれずに、焦々した気持ちになるのであろう。大次郎はこのごろ、人が変ったように、神経が尖《とが》り、千浪に対しても、以前とは打ってかわって、荒あらしい声を放つのだった。
顔じゅう繃帯に覆われ、月代《さかやき》は、百日鬘《ひゃくにちかずら》のように伸び放題。狂的に光りかがやく眼が、いつも凝然《じっ》と千浪を見守って。
彼女《かれ》は、われにもなく眼を外向《そむ》けながら、
「雪が降ります前に、下りなければなりませんと思いますけれど――。」
「けれど、なんです。こんな化物《ばけもの》のような顔になった拙者と、ともに、江戸へ帰らなければならないかと思うと、この山を出る気にはならないと言うのだろう。」
「あれ、またあなた、そんなことをおっしゃって、わたくしを困らせてばっかり――。」
「千浪。」
「はい。」
「きょうは顔の繃帯を取ってくれ。」
「は、い――でも、あの、あの――。」
大次郎の顔が、どんなに変相しているか、千浪はその恐ろしい事実を知っていて、顔の繃帯をとる日を、一日延ばしに延ばしてきたのだが――。
逡巡《ためら》っていると、癇走った大次郎の声で、
「取ってくれと言うに、なぜとらぬのだ。」
女とも見紛うた、ふくよかな美しい顔に、額部《ひたい》と言わず頬と言わず、ふかい刀痕が十字乱れに刻まれて、まるで打ち砕かれた鬼瓦のよう――とは、大次郎、知らないのである。
が、いくらか察してはいるらしい。
「繃帯を取ったとて、鏡を見るとは言わぬぞ。」
「あれ、またあんなことを――では、おとりいたします。」
もう、仕方がない。床の上に起き上っている大次郎の背後《うしろ》に廻って、膝を突いた千浪、観念して布の結び目を解きにかかると、
「待て。待ってくれ、千浪。」悲痛な大次郎の声で、「拙者の顔がどう変っておろうとも、大次郎を想ってくれるそなたの心にかわりはあるまいな。」
千浪は一生懸命に、
「なにをおっしゃります。千浪は、遊び女ではござりませぬ。お顔によって、つくす誠に違いがございましょうか。なんという情ないお言葉――。」
「よし! その口を忘れるな。解け!」
顫える千浪の手で、繃帯は、ひと巻き二まき、ほごされてゆく。
やがて、眼の上の凄い刀痕が、ちらと見えてきた。
大次郎は、つと手を上げて千浪の手を押さえて、
「ま、待て――待て、千浪! もう一度訊く。拙者の顔がどんなになっておろうと、そちのまごころは変らぬであろうな?」
「あれ、また! おことばとも覚えませぬ。千浪を、そのような女と思召しでござりますか。」
「ははははは、よろしい! 早く取れ、早く!」
わななく胸を押さえて千浪は懸命に、繃帯を巻き取る。早く! 早くと促されるままに、眼まぐるしいほど手を廻して。
眉が、片眼が、紫いろの、凹凸の中から、覗いてきていた。
江戸の巻――二人白衣――
足留め詣り
「いくら呑気だってほどがある。うちの宿六《やどろく》には呆れ返っちまう。これで十日あまりも冢を明けているんです。南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、どうぞ足どめをしてお返し下さいますように――。」
朝の七つ半刻、むらさき色の薄靄が暗黒《やみ》を追い払おうとして、八百八町の寺々の鐘、鶏の声、早出の青物の荷車――大江戸は、また新しい一日の活動にはいろうとして。
ここ深川、富ヶ岡八幡の社前に、おごそかに柏手を打ってしきりに何ごとか念じているのは、恋慕流しの宗七の妻、お多喜なので。
きれいに掃き清められた階《きざは》しの下にうずくまって、
「ほんとにほんとに、愛憎《あいそ》がつきてしまいますけれど、でも八幡さま、あれでも、あたしにとっては大事な人ですからね
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