あござんせんが。はてな――。」
 けれど、いくら眺めわたしても、狭い山上は一眼である。人といっては、大次郎と宗七の二人きりで、思い出したように雨に濡れた小鳥の声――。
 陽は、もう高く上りかけて、三国神社の檐《のき》に、雨垂れの粒が七色にかがやいている。しいんと、耳を突き刺すような山奥のしずけさを破って、峰から峰へ濃《こ》みどりの風が吹いて渡る。
 大次郎は眼を返して、じっと宗七の顔を見つめていた。
「有森。いや、宗七どのか。拙者のことは後刻話すが、この七年のあいだ、貴殿は何をしておられたかな?」
 すると宗七は、もうすっかり芸人のふうが身に染《し》みわたっているに相違ない。まるで生れからの恋慕流しか、未知の武士の前へ出たように、おずおずと頸すじを撫でて、
「へえ、それがその、面目次第もげえせんので――七年前の今月今日、ここで旦那さま方に言いつかりやしたとおり、へへへへへ、あのお約束をいいことにね、江戸へ出で、精ぜい女狂いをしておりやすうちに、とうとう旦那、三味線ひきのお多喜って女に、取っ憑《つ》かれてしまいやして、まあ、旦那の前ですが、惚れたの腫れたのとへへへへへ、ま、そこらは御推量にお任せ申すとして、今じゃあ、そのお多喜と一しょに色街から色まちへと、恋慕流しのつれ弾《び》きてえしが[#「しが」に傍点]ねえ渡世で、へえ。」
 しきりに頭を掻いている宗七のようすは、装っているのでもなんでもない、こころの底からの巷《まち》の遊芸人である。
 泣き出さんばかりの顔で、大次郎はそれをじっと見据え、
「無理もない、女、おんな――最も危険の多い煩悩を受け持ったのだからな。その女の毒気に身も心も汚《けが》れはてて――。」
「へ?」
 宗七は、とろんとした眼を上げる。
「あは、あははは、いや、こっちのことじゃ。」大次郎は、自嘲的に笑って、「それでどうして、誓約どおり今日ここへ来る気になられた。」
「それがどうも、あっしにもよくわからねえんで、へえ――来ねえつもりだったんですが、なにかにこう引っ張られるような気もちで、気がついた時あ深川の家を出て、この浴衣のまんま、ふらふら歩いて来ておりやしたんで。へえ、へえ、お多喜の阿魔《あま》あ、今ごろは眼の色を変えて探しておりやしょう。へへへ。」
「有森氏!」
 思わず大次郎は、声を励《はげ》ました。
 七年ぶりに会った懐しい友の一人は、こんなに変りはてているばかりか、この七年間予期しつづけて来た親しみさえ、すこしも湧いてこないで、まるで、冷たい他人行儀。
 しかし大次郎は、あくまで宗七と観ず、むかしの有森利七とのみ扱おうとして、
「田万里の件――かの出羽への怨執《おんしゅう》は、よも御忘却ではあるまいな。」
 宗七はきょとんとして、
「へ?」
「煩悩が煩悩に溺れては、その煩悩の中より力を獲ることは叶《かな》わぬわけ――有森氏! 煩悩力をもって出羽を討つとの誓いはいかが召されたっ!」
 すると宗七は、何を見つけたのか、ぶらりと起ち上って、
「あ! あそこの草の中に、笠がありやす。真新しいつづら笠、雨に濡れて――。」
 大次郎も、頭《こうべ》をめぐらす。見ると、なるほど、神社の裏手の草むらのなかに、誰が置いたのか新しい葛籠笠がひとつ、そぼ降る雨を吸って、光って。
 話を打ち切った二人は、足早にその草叢へ踏み込んで行った。
 足が、濡れる。
 裾を引き上げた伴大次郎と、今は深川の恋慕流し宗七、左右から笠を挾んで立った。
 見下ろす。
「どうしてこんなところにつづら笠が――。」
 つぶやきながら、宗七が手をかけて笠を除《と》ると、下には、小石を重しに載せて一枚の紙が置いてある。
 宗七が拾い上げて、大次郎に渡した。
「はてな。何人が残しておいたものか。ことによると、佐助ではないかな――。」
 ふたつ折りの紙をひらくと、さらさらと矢立《やた》てを走らせたらしい墨のあと。
[#ここから1字下げ]
「約束どおりこの山へ来り候えども、思う仔細ありて、両人を待たず、一足先に下山仕り候と申すは、昨夕登山のみぎり、この下の猿の湯にて、江戸|女《もの》と覚《おぼ》しき見目うるわしき女子を見初《みそ》め、この七年間、何ものにも眼をくれず、黄金のみ追い来りし文珠屋佐吉《もんじゅやさきち》。ぞっこん恋風とやらを引き申候。これより猿の湯に引き返し、強談もて娘を申し受くる所存に候。御存じのとおり、生れつき不具同然の醜面にて、おなごに縁うすき佐助の初恋。ゆめお嗤《わら》い下さるまじく、いずれは再び七年後に、この山頂にて御面談仕るべく、まずは一筆、こころの急《せ》くまましるし残し申候。
           江上佐助あらため、
                文珠屋 佐吉」
[#ここで字下げ終わり]
 大次郎、手がふるえて、紙が、かさかさと細かい音を立てた。
 猿の湯にいる江戸ものらしい女――千浪さまにきまっている!
「あの江上めが今は文珠屋と名乗って――うむ! こうしてはおられぬ。宗七、また七年後にここで、会おうぞ。」
 叫んだ大次郎、愛する千浪の危急を知って、いっさんにその三角形の山頂を駈け下り出した。ぼんやり呆気に取られて後見送っている宗七を残して――三里の下りを阿弥陀沢の藤屋へ。
 言いだしたらきかぬ江上佐助の気性、これはただごとでは納まるまいと、大次、走りながら、腰の女髪兼安の柄を叩いて、ぶつり、鯉口を切った。
 きらり! 鯉ぐち三寸、銀蛇のごとくきらめいて、眼を射る。そこに、何の焼刃《やいば》のみだれか、一ぽん女の毛が纏わりついたと見える鍛《きた》え疵《きず》。
 阿波の右近三郎打ち上げるところの女髪兼安。
 ゆうべ出がけに此刀《これ》を渡すとき、法外先生が言った――「くれぐれも言っておくが、大次、けっしてこの刀を抜いてはならぬぞ、抜けば血を見る。擾乱《じょうらん》を呼ぶ。刃元にうかぶ一線の乱れ焼刃。女髪剣、必ずともに、その女髪に心惹かれて、戯《たわむ》れにも鯉口を押し拡げるでないぞ。よいか。」
 その女髪兼安を伴大次郎、いま抜きかけて、ぱちんと鞘へ返したが。
 が、ハッキリと見てしまった女性《にょしょう》の髪の毛! 七年目、山上の会合が、こんな意外な展開を生もうとは!

     血煙お花畑

「かっ! この女は、貴様の何だと申すのだ。」
 山路主計が、柄がしらを叩いて、一、二歩、前へ出た。
 大次郎は黙って、手にしていたつづら笠を、ぽんとうしろへ投げやった。
「藤屋から後を尾けて来たのか。」
 それでも、大次郎は、答えない。眼が据わって、異様な光りが、出羽守の一行を睨め廻している。
「斬れ、斬れ!」
 誰かが、山路のうしろから、声をかけた。
「問答無益!」
 北伝八郎がおめいて、すらり長刀を引きぬきざま、主計と大次郎のあいだへ割り込んで来た。
「小僧っ! 来るかっ!」
 両手の指を失った川島与七郎は、一人が扶《たす》けて、七、八人の出羽守の一行である。
 出羽は、すこし離れたところに立って、相変らず白の弥四郎頭巾の中から、おそらくは面白そうに、伴大次郎を凝視《みつ》めている。その背後に、ふたりの武士に左右を押さえられて、千浪が、狂気のようにおろおろと立ちすくんでいるのだ。
 猿の湯をすこし相模のほうへ下りた途中の、山と山の間の広野である。こんなところで、何人の丹精《たんせい》で、こんな花園があるかと思われるくらい、地べた一めんに高山植物が花をつけて、ひろい野原に、赤、黄、むらさきと、一望に咲き揃っている眼も綾《あや》な自然の友禅模様《ゆうぜんもよう》――高い山にはよくあるお花ばたけなのである。
 三国ヶ嶽から藤屋へ駈け下りた大次郎は、法外先生が階下の白覆面のために、肩に重傷を負わされたのみか、その一行は、騒ぎに紛れて千浪をひっ攫《さら》い、急遽《きゅうきょ》袂《たもと》をつらねて下山の途についたと知るや否、腰間《こし》に躍る女髪兼安を抑えてただちにあとを踏み、今やっとこの中腹のお花畑へ、千浪をかこんで麓へいそぐ一同に追いついたところだ。
 江上佐助の文珠屋佐吉は、途中も気を配って捜して来たがどこにも見えない。
 そして、これが、眼ざす祖父江出羽守とは、大次郎知る術《すべ》もないが、養父同然の恩師法外先生のかたきではあり、いま目前に、千浪様を掴まえて伴れて去ろうとしている相手だから――大次、しずかに女髪兼安の鞘を払って、とうとう抜いた。
 出羽は、猿の湯の猿を殺して山に渦紋を招き、伴大次郎は禁制の女髪剣に陽の目を見せて、いよいよこの紛乱にいっそうの血しぶきをくれようとしている。
 きのうの宵、三国ヶ嶽の月が笠をかぶったのは、ただ、昨夜のお山荒れをだけ予言したのではなかった。この、人界の血の暴風雨と、それから捲き起る万丈の波瀾を警告したのではなかったろうか。
 そして、このすべては、善も悪も「煩悩」の二字が操るように人を動かして。
「まいるぞ。」
 しずかな声で、大次郎が言った。
 と、瞬間に、正面の北伝八郎を襲うと見せた大次郎、だっ! 横ざまに足を開いて、右手にいた一人へ片手なぐり――女髪兼安は、がっと聞える異妖なよろこびの叫びを揚げて、肉を咬《か》み、骨を削った。
 たら、たらと、女髪を伝わって鍔もとを舐める温かい人血。
「ふふん、こりゃそうとうできる!」
 中之郷東馬がそう言ってにやりとすると、大次郎も笑いながら、
「お賞《ほ》めにあずかって――それでは、次ぎは貴殿へゆこう。」
 くるりと、斬尖《きっさき》を東馬へ向けた。

     入道雲

 もう、伴大次郎は、伴大次郎ではなかった。下谷の小鬼だった。
 間もなく――一人ふたりと女髪兼安を喰らって白い花を赤く染めて断末魔の蹂《もが》きに草の根を掴む者、痛手を押さえて退《しりぞ》き、花のあいだに胡坐《あぐら》を組む者。
 大次郎のまわりには、入りかわり立ち代り、新手が剣輪を描いて。じっ――! 静止するかと見る! たちまち前後左右に飛び違える。鉄《あかがね》とあらがねが、絡んで、軋んで、押しあうひびき。掛け声は、出ない。沈黙の力闘なのだ。花の香を消す血のにおいが漂って、野の末にはむくむくと、梯子をかけて登れそうな雲の峰の群らだちである。
 その、夏の陽ざかりの入道雲を背景に、白い棒のような剣がうごいて、人は、草をふみしだいて縦横に馳駆する。
 大次郎も、かなり斬りつけられているに相違ない。着物はところどころ裂かれて、若布のように下がり、どす黒い血を全身に浴びて、顔ももはや人相がわからないほど血まみれなのだ。
 血で、女髪兼安の柄が滑るのか、時どき片手ずつ離してはじぶんの脇腹へ股へ、赤い掌をこすり拭いている。
 出羽は、動かない。
 両手をひらき気味に、背後の千浪を遮《さえぎ》って立ちはだかったまま、じっと、その大次郎の太刀捌《たちさば》きを眺めているのだ。
 広い野づらに、小さな人影が入り乱れて、血戦はつづいてゆく。花だけが静かに呼吸づき、雲は、移るともなく、すこしずつ流れている。
 この時である――。
 お花畑の隅の、山みちに寄ったほうに、一むらの灌木の繁みがある。その陰にそっと身を潜めて、葛籠笠を傾け、道中合羽の袖を撥ねて、さっきから憑《み》されたように、この斬りあいに見入っている人物がある。
 手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》、荒い滝縞の裾高くはしょって、一本ざし――見覚えがある。
 文珠屋佐吉だ。
 かれ、三国ヶ嶽から下りて早朝に、藤屋へ宿をとったのだが、間もなく下座敷の侍の一行が、例のむすめを押し囲んでにわかに出発するもようなので、脱いだばかりの草鞋をすぐ穿き、ずっとおくれて後をつけて来たのだが。
 驚いた。
 尾《つ》けているのは、じぶんだけではない。
 山上に利七と会っているはずの大次郎――七年会わないあいだに、すっかり江戸風の、立派な若ざむらいになった大次郎が、押っ取り刀で、見え隠れに一同の跡を踏んで行く。そして、ほかにも誰か人を求めているらしく、きょろきょろあたりを窺っていくようすなので、これには何かわけがありそう――見つけられては面白
前へ 次へ
全19ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング