と赤い、小さな物が降って来たので!
 皿へ落ちる。起ちかけた膝もとに転がる。髷に引っかかる。頬を打って飛ぶ――十本ばかりの、細い金魚のようなものだ。
「なんだ――!」
 と拾い上げて見る。指である。いま斬り離されたばかりの血に染《まみ》れた手の指が十本!
「うぬ!」
 酔いもなにも一時に醒めて押っ取り刀、わや、わや、わやと崩れ立った中之郷東馬、山路主計、ほか六、七人の異形の士《さむらい》、なかに、北伝八郎という素っ裸のさむらい、さらしの六尺に一本ぶっこんで、
「与七郎、やられたのかっ! おのれ――!」
 まっ先に階段を駈け上ろうとする――と! その頭の上へ落ちて来たのだ。川島与七郎が。血だらけの袖で、死人のように蒼褪《あおざ》めた色で、一段一だんと、弾みを打って。
「どうしたっ!」
 総勢取りかこむ。中之郷が、ぐったりしている川島のもとどりを掴んで、顔を引き上げる。と、どうだ! 額部《ひたい》に書いてあるのだ――「酒の肴に進上」と、墨黒ぐろ。
 両手の指はすっかり切り離され、血に染んだ摺《す》り古木《こぎ》のような、なんとも異妖なすがた!
 与七郎は、虫の息で、
「驚いた。恐ろしくできるおやじだ。一言いうと、黙って小刀が飛んで来て、ぱらり、十本の指が飛んだ。それから――それから、押さえつけられて、額部《ひたい》に墨で何か書かれたまでは覚えているが――。」
 二階は、しんとしている。
 暴風雨は、ちょっと小止《こや》みになって、一瞬間の不気味な静寂――階上には、法外父娘の部屋の障子に、ぼうっとあんどんの灯が滲んで人のいそうもない気配。
 呼吸《いき》を詰めて一同が、はっと階上《うえ》を見上げたせつなである。
「うわっ! こりゃ、なんとしたことじゃい! この猿の湯でお猿さまを斬り殺すとは――!」
 土間の男衆が、つん裂くような声で叫んだ。
 と、見る。片手に傘をさし、かた手に小さな猿の死骸をぶら下げた祖父江出羽守が、切戸を潜って、のそりとはいって来ている。
「畜生のくせに、湯へはいりに来おったから、一刀のもとに、このとおりじゃ。四足を斬った刀は、滅法切れると言うことじゃぞ、ははははは。」
「じゃが、旦那、殿さま、お猿さまは、この猿の湯の守り神で、あれは、お猿の湯へ人間が入れて貰っておるというくらい――ああ、こりゃ、とんだ崇りがなければよいが。」
 おろおろと立ち騒ぐ男衆へ、出羽守は、一喝をぶつけて、
「猿を斬ったがなんで悪い! さほどに思うなら、手厚く葬ってやれ。」
 どさりと、猿の屍骸を下男の顔へ投げつけておいて、出羽守は、家臣らの集まっている階段の根本へ。
 じろりと川島のようすを見ると、一眼ですべてを知ったらしい。
 そのまま、無言で梯子段を上って行くのだ。中之郷と山路が、すぐそれに続く。とっつきから弓削父娘の部屋で。
 出羽守、がらり障子を引き開けながら、
「おやじ、くどいようじゃが、また、娘を貰いに来た。」
 弥四郎頭巾の中からきらり、つめたい眼がきらめく。
 同時に、からだ一つ崩さずに、いま猿の血をなめたばかりの腰間《こし》の利剣が、音もなく、白く伸びて――法外先生は、たちまち肩口を押さえて、堂っ! とそこに倒れていた。
 女髪兼安が手にないために[#「手にないために」は底本では「手にないめに」]、法外、急に腕が鈍ったのか、それとも、猿を斬った出羽守の刀が、人間業以上の働きをしたのか。
 うっ! と呻いてのけ反る父へ、駈け寄ろうとする千浪は早くも、中之郷、山路の二人に、左右の手を取られて阻《はば》まれていた。
 お山荒れは、ふたたび勢いを盛り返して、雨と、風と、屋鳴りと――それのなかに、頭巾をゆさぶる出羽守の狂笑が、さながら猿のそれのように、高く、鋭く、つづいた。

     山頂恋慕流し

 谷に聳《そび》える露が、ひとつ一つ光り輝いて、まるで、無数の真珠を懸けつらねたよう――。
 濡れたみどりが、迫るように息づいて、草と土の香が爽かに立ち昇って、ひがしの空がうす紅いろに色づいて――東天紅《とうてんこう》を告げる鶏の声を聞くべく、あまりに里離れているけれど――雨のなかを、雨を衝いて登る太陽。
 あかつき。
 七年目の七月七日、明けの七つ刻に、三国ヶ嶽の山上、三国神社の前に、やがて匂やかな朝が来た。
 駿、甲、相の三国ざかいが、ここ小さな三角点に集って、ささやかな平地をなしているてっぺんである。
 三つの登り口が相会するところ――三国の鎮め三国神社の古びた祠《ほこら》は、この三角の地形の正面にある。
 左右は、底ぶかい渓谷で、杉、蝦夷松《えぞまつ》、柏などの大木が、釘を立てたように小さく低く覗かれる。だんだんと畝《うね》りを作って続く樹の海の向うに、大洞、足柄、山伏の山々――その山伏山のむこう側に、今はない田万里の廃墟があるので。
 灰色の雲の去来。それが、起伏する連峰をひと刷《は》けに押し包んで、山肌に、ところどころ陽が照っている――明方の日照り雨。
 雨は、まだ降っているのだ。お山荒れは、どうやら納まったらしいが、こまかい糠雨《ぬかあめ》が、山をひとつに抱いて、しとしと、しとしと、と。
 それに、時どき、風さえ横なぐりに――神社のまえの三角地の中央に、高さ一尺ほどの三角形の石が立っている。
 三国ヶ嶽国境の石なので、三角の面に、それぞれの方角へ向けて甲斐の国、するがの国、相模の国と彫ってある。
 いつの時代、何人の置いたものか、石は、千古の三国荒れに揉まれ抜いて三角の角は摩滅《まめつ》し、青苔が蒸して、彫ってある文字も定かではないが、三つの国は三つの線を描いて、この石のところで出合っているわけ。
 お社の、格子づくりの扉をぴったり閉じ、奉納の絵馬の一つふたつ――黙念として春風秋雨の七年間、この今朝の三人の会合を待っていたかのように。
 約束の場所である。伴大次郎と、江上佐助と有森利七と。
 起誓の三角石である。七年前に別れる時も、大次郎はこの石に腰うちかけて若い二人の友と話し込んだものだった。銘めい葛籠笠を引きつけて――。
 自然は、変らない。人事は走馬燈のように、あわただしく移りかわるが。
 七年の歳月は、当年二十歳の三人を二十七にし、伴大次郎を法外流の名誉、下谷の小鬼に変えた。そして今は、あの、この三里下の山腹、あみだ沢の藤屋に自分の帰りを待ち焦れているであろう千浪様というものを有つ身である。
 だが。
 変らないのは、石と木と草と、神社だけではない。
 大次郎もあのときと同じに、この国標の三角石に腰を据えて――七年のあいだ、ちっとも変らなかった景色に見える。
 待っているのだ。煩悩の他のふたつ、金と女を追って七年。前に下山した佐助と利七を――。
 来るかな? と思う。
 来る! くるにきまっている!
 と大次郎が、小雨を相手に独り言を洩らした時、勘治村《かんじむら》、道士川《どうしがわ》と越えてくる甲斐すじの登り口から、りょうりょうと一節の、何の煩悩もないような今時花恋慕流《いまはやりれんぼなが》しの唄声が、上がって来た。
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「君は五月雨《さみだれ》
 思わせぶりや
 いとど焦るる
 身は浮き舟の――。」
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     おんな崩れ

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「いとど焦るる
 身はうき舟の
 浪に揺られて
 島磯千鳥
 れんれ、れれつれ
 れんれ、れれつれ。」
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 灯《ひ》の艶《なま》めかしい、江戸の花街《いろまち》で聞く恋慕流しを、この深山の奥で――大次郎は耳を疑いながら、弾かれたように三角石を離れて、神社の横の甲斐口へ向い、両手で声を囲んで、
「おうい!」
 突き上げて来る感激に、胸がふるえる。
 甲斐ぐちから登ってくるなら、有森利七に相違ないが、きゃつめ、女色煩悩を引き受けて七年むかしに山を下ったのだけれど――今この、灰《あく》の抜《ぬ》けた恋慕流しの咽喉《のど》から察するに、相当その道に苦労して、女という女を見事征服してきたに相違ない――。
 大次郎の口辺に、友へのなつかしさが微笑となって浮かんで、
「おうい――!」
 もう一度呼ばわると、唄声は、ぴたりと止んだ。
「有森ではないか。利七ではないか――伴だ! 大次だ。待っておったぞ。」
 神社の横手から熊笹の中を、だんだら下りの小径《こみち》が、はるか甲斐の国のほうへ落ちている。その降り口まで走り寄って大次郎が下を望むと、
「へっ! こりゃあ伴の若旦那で――どうも、あいすみやせん。長らくお待ちになりやしたか。」
 という声とともに、一人の町人体の若い男が、その小みちを上って来る。
 山がけの旅とも見えず、万筋《まんすじ》の浴衣一まい引っかけたきりで、小意気なようすに裾を端折り、手に、約束のつづら笠を下げているのだが――水の撥先をぱらり捌《さば》いた小銀杏《こいちょう》の髪に、鼻すじの通ったあお黒い顔、きりっと結んだ口、いかにもおんな好きのする面立ちは、忘れもしない、たしかにあの田万里で、一しょに小川の目高《めだか》を掬《すく》って幼い日を送った有森利七である。
 が、しかし、なんという変りよう!――着つけから身のこなし、ことばの調子、顔まで、もうすっかり町人――というよりも、芸人としか見えないのだ。ひとりの人間が七年間に、こんなに変りうるものかと思うくらい。
 懐しさが先に立って、大次郎はまだ、相手の変化に気がつかないらしく、
「おお利七! やっぱり来てくれたか。貴公も、この七年目の約束は、忘れなかったのだな。」
 と、登って来る利七に走りよって、手を取らんばかりにすると、
「いえ旦那、もったいない! ですけれどねえ、旦那、つまらない約束をしたばかりに、えらい目にあいやしたよ。途中でずっと降られどおしで、へへへへへ、御らんのとおり、ずぶ濡れの、ぬれ鼠の、濡れ仏ってんで。」
 大次郎は、はっとしたように、利七を見直した。
 たしかに利七には相違ないが、語調といい、顔つきといい、七年間の遊蕩《ゆうとう》に崩れきったらしい安芸人肌――きっとした大次郎の視線を受けても、利七は平気の平左で、がさがさと笹を鳴らして上って来ると、自分から先に中央の三角石の前へ行って、ばらり、裾を下ろして蹲踞《しゃが》みこんだ。葛籠笠をぽんと、傍らの地上へ投げ出して。
「おおしんど! なんてえことを、上方女なら、言うところでげす。さあ旦那、めえりやした。宗七はお約束どおり、立派に山へめえりやした。煮るなと焼くなと、わちきゃお前の心まかせじゃわいのう――とおいでなさいましたかね。」
 三角石に腰かけた大次郎は、呆れて相手を見下ろして、
「有森! 七年目だな。」
「へ? なるほど。ここで会うたが七年目、覚悟はよいか、でんでんでん――こりゃあ太棹《ふとざお》で、へへへへへ。」
「利七、真面目に話そうではないか。」
「利七? ははあ! 有森利七でげすかい。厭ですよ旦那、旦那もお人が悪い。そりゃあ昔のことで、今じゃ宗七――。」
「宗七?」
「へえ。れんぼ流しの宗七さんで。どうぞ御ひいきに――。」
「ふん!」大次郎は不愉快気に顔をしかめて、「変えたのは、名前だけではないようだな。貴公、心の芯《しん》から変ったようだな。」
 利七の宗七は、そぼ降る小雨のなかで、ぽんと一つ額部を叩いて、
「そ、そりゃ旦那、旦那の前ですが、女から女への七年間、いいかげん変りもしましょうさ。有森利七なんてえ野暮仁《やぼじん》は、もう、とっくのむかし死んだんで、ここにこうしておりますのは、吉原《なか》から遠く深川《たつみ》へかけて、おんなの子を泣かせる恋慕流しの宗七さま、へへへへへ。」
「見上げたものだ。」ふっと眼を外らした大次郎、「江上はいかがいたしたのであろう。あの佐助が、きょうの会合を忘れるはずはないが――。」
 と言った顔には、遣り場のない淋しさが、大きく描かれてあった。

     草の文

「さようでげすな。」
 宗七は軽薄な表情で、わざとらしくそこらを見まわしながら、
「あの江上の先生が、今日という日をすっぽかすわきゃ
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