咆え狂う風の中を葛籠笠を傾けて、と、と、と――大次、たちまち闇黒《やみ》に消えた。
 框に立って、伸び上り、屈みこみ、一心にやみの奥をすかし見送っている法外先生父娘。
 すると――。
 梯子段のうしろが大広間で、すっかり戸障子が除《と》り放してある。
 そこの座敷に。
 杯盤狼藉《はいばんろうぜき》をきわめて噪《さわ》いでいた、風体人相の好くない浪人者と覚しい七、八人の一団――部屋の隅に、四曲屏風を立てめぐらして、その中に、白衣に白の弥四郎頭巾をかぶり、眼だけ出した痩せぎすの武士が、敷蒲団に寝そべって若侍に肩腰を揉ましているのが、屏風の蔭に斜に覗いて見える。
 いま、この一座が、ぴったり鳴りを鎮めて、浪人ものも、弥四郎頭巾も、いっせいに舐廻《なめまわ》すような視線を千浪の立ちすがたに集中《あつめ》ているのを、法外老人もかの女も気がつかなかった。

   深山の巻――福面鬼面――

     白魔

「もうよい。これ、もう、揉まずともよいと申すに。」
 祖父江出羽守は、激しく肩を揺すぶって、按摩をしていた若侍の手を振り切った。
 そして、
「二階の娘か。」
 と早口に呟いて、むっくり、敷蒲団の上に起き直った。
 白絹に黒で紋を置いた紋付きを着流して、頭からすっぽりと、雪白の弥四郎頭巾を被り、眼だけ出している出羽守である。顔は見えない。
 が、恐ろしく癇癖《かんぺき》が強いに相違ない。膝に構えた両手が細《こま》かく顫えて、頭巾から窺いている鋭い眼も赤く濁っている。
「は。」
 と、出羽守の肩に手をかけていた小姓風の若侍が、その手を引いて、背後に畏《かしこま》った。
 広間にとぐろを巻いて、がやがや酔声を揚げていた浪人体の荒くれ武士たちも、今は、ひっそりと呼吸《いき》をのんで、この、部屋の隅に、四曲屏風を背に敷ぶとんに坐っている出羽守へいっせいに眼をあつめている。
 阿弥陀沢の山の湯宿、藤屋の階下座敷《したざしき》、ちょうど梯子段の裏にあたって、七月とはいえ、山の夜気は膚寒いのに、ぱらりと障子を取り払った大一座だ。
 七、八人の、人相風体のよくない一行――もう大分前からこの藤屋に泊り込んで、毎日毎晩、まるで、家が破裂するような騒ぎをつづけてきているので。――
 山路主計《やまじかずえ》、中之郷東馬《なかのごうとうま》、川島与七郎などという連中――身を持ち崩した田舎侍のような装《つく》りだが、皆これ出羽守お気に入りの家臣なので、こうして主君出羽の御微行《おしのび》の供をして、この猿の湯へ湯治に来ているのだった。
 悪遊びと乱行が、骨の髄まで染み込んでいる出羽守は、市井《しせい》無頼《ぶらい》の徒のようになっていて、この側近の臣に対しては、あまり主従の別を置かないのである。
 ぐっと砕《くだ》けてでて、まるで友達扱い。
 それにはまた、この取巻きに要領の好いのばかりが揃っていて、殿のこの気性をすっかり呑み込んで、よくないことにすべて御相伴にあずかるといったふうだから、この傾向はいっそう助長されるばかり、ことに今は、世を忍んで入湯に来ていて、宿にさえ身許を明かしてないのだから、さながら旅の浪人者の一団、出羽守はその中でのいささか頭分と見えるだけだ。
 府中あたりの田舎浪士が、気楽な長逗留という触れ込みで、藤屋でも、この一行の身分は知らないのである。
 ひとつには、今いった、やくざの寄合いのような一同の態度物腰と、もう一つは、祖父江出羽守、寝ても覚めても白の弥四郎頭巾をかぶっていて、ついぞ顔を見せないからで――。
 前の谷の猿の湯へは、必ず真夜中に、そっと一人で降りて行く。
 日中は、ざしきの片隅の屏風のかげに、例の弥四郎頭巾に面体を包んで、長身のからだを横たえたきり――これでは、宿のものにも里人にも、何者とも知られようがないのに不思議はない。
 何か、曰《いわ》くありげなようす。
 とりまき連は日夜酒で、きょうも朝から痛飲、放歌乱舞、すわり相撲やら脛押しやらそれを出羽守は弥四郎頭巾の中から眼を光らせて、終日、にやり、にやりと笑って眺めているので。
 よほどどうも変った大名には相違ない。
 いま。
 伴大次郎が女髪兼安を佩して、三国ヶ嶽の頂上を指して闇黒に消えて行ったすぐあと。
 見送っていた法外先生と千浪は、ほっと溜息を残してしょんぼりと、促《うなが》し合って梯子段を、二階の自室《へや》へ帰って行こうとしている。
 とん、とん――とん! と、父娘が階段を踏み上る跫音に、広間の一同は、出羽守の弥四郎頭巾へ据えていた眼をかえして、またじっと、登って行く千浪の背後《うしろ》すがたを凝視《みつ》める。淫靡《いんび》な視線が、千浪の腰、脚のあたりに、絡むように吸いついて。
 大兵の中之郷東馬、さも感に耐えたように、赭ら顔を一振りふって大声に、
「いや、逸品《いっぴん》!」
「五月蠅《うるさ》いっ!」
 出羽守は、咬みつくように呶鳴って、すぐ、笑いを呑んだ冷い声を、階段の法外先生へ投げ上げた。
「おい、老《お》い耄《ぼ》れ! 娘を借りようかの。このとおり、野郎ばかりで埒《らち》の明かぬところ。酒の酌が所望じゃ――。」

     谷へ下りる番傘

 変に陰惨な声で、だしぬけに無礼なことを言うやつがあるので、法外は、思わずきっとなって、はしご段の中途に立ちどまった。
「お父さま、どうぞ相手にならずに。」
 千浪は、二、三段下から、必死に懇願して、押し上げるような手つきをする。
 じろっ! と、階下《した》の座敷を白眼《にら》み下ろしたまま、法外先生は無言である。
 柿色割羽織《かきいろわりばおり》の袖を、ぽんと、うしろへ撥ねて、悠然と梯子段を上りきった。
 逃げるようにつづいて、千浪が小刻みに駈け上る。
 戸外《そと》は、盥《たらい》の水を叩きつけるよう、轟《ごう》っ! と地を鳴り響かせて降りしきる山の豪雨である。まっ黒な風が横ざまに渦巻いて、百千の槍の穂尖《ほさき》を投げるような、太い、白く光る雨あし。
 三国ヶ嶽のお山荒れは、とうとう本物になりそう。
「馬鹿め!」
 吐き出すように言って、出羽守は起ち上った。
 川島与七郎が、
「のう、殿――。」
「与七! 殿とは禁句のはずじゃぞ。何じゃ。」
「あ、さようでございましたな。しかし、物も言わずに、ずいと上ってしまうとは、きゃつ、年寄り甲斐もない無礼なやつ!」
 誰かが傍から口を合わせて、
「なんでも、江戸の武芸者だとかいうことだが。」
 あとは、肩肘を張って口ぐちに、
「ふん、江戸の武芸者か。へん! 江戸にゃあ、武芸者と犬の糞は、箒で掃くほど転がってらあな。」
「あの若造は、娘と言い交した仲でもあるかな。それにしても、この大雨風の夜更けに、いずこへ出かけて行ったのだ。」
「そんなこたあどうでもいいや。」宿の浴衣の腕捲くりをした山路主計が、「それより、貴公たち、あのおやじにあのような扱いを受けて、黙って引っ込んでおる心算《つもり》か。」
「そうだ! どうあっても娘を呼んで来て、酒の相手をさせろ!」
「うむ! 男ばかりで飲んでおっても、とんと発しない。誰か行って、ちょっと娘を引っ張って来い。」
「ぜひとも下りて来て貰わにゃ、一同の顔が立たんぞ。」
「なあに、貴公の顔なんざ、ついぞ立っていた例《ためし》がねえ。いつも寝転んでやがら。」
「余計なことを言うな。おい、川島、貴様弁口が巧い。二階へ行って、娘を借りて来い。」
「よしきた。一つ、弁天様のお迎いに行くかな。」
 藤屋のどてらを素膚に引っかけた川島与七郎が、いつもの、古草鞋のような不得要領な顔で、気軽に腰を上げかけると、
「湯へ行ってまいる。」
 蒲団の上に突っ立って、何かぼんやり考えこんでいた出羽守が、いきなりそう言って、縁へ踏み出した。大刀を差したままである。湯へ行くにも、刀は離さないのだ。
 びっくりした一人が、
「ですが、この、雨の中を――。」
「黙っておれ。雨だとて仔細ない。湯へはいれば、どうせ濡れる。おい、手拭を取れ。」
 差し出した手拭を鷲掴みに、出羽守はぶらりと土間へ下りながら、
「一風呂浴びて来て、飲み直しじゃ。今夜《こよい》は徹宵《てっしょう》呑《や》るも面白かろう。湯から上って来るまでに、娘を伴れてきておけ。湯壺へは、誰も来るでないぞ。」
 いつも必ず真夜中に、ただ一人で猿の湯へはいりに行くのである。片手で番傘を振りひらいて、篠突く雨のなかへ、刀の鞘を袖で庇《かば》いつつ、出羽は、さっさと出て行った。
 二階には、この祖父江出羽守を仇敵《かたき》と狙う伴大次郎が、ものの半月も滞在していて、階下の座敷には、こうしてその当の出羽守が、遊び仲間のような取りまき連中を引き具して泊っている。四六時中《しょっちゅう》覆面して、深夜の入湯のほかはほとんど寝たきり、姿を見せることもないので、大次郎は気が付かなかったのだが、この奇《く》しき因縁は第二としても、遠州相良の城主、菊の間詰、二万八千石の祖父江出羽守が、いくらお忍びとはいえ、こうしてこの粗末な山の温泉に潜んでいるとは――!
 しかも、主従関係を隠し、供の連中などは変装同様のいでたちで。
 そして、面を覆って、それに、毎夜丑満を選んで入浴する。おまけに、湯へ人の来ることを厳禁して。
 一行は、殿様を朋輩あつかいに、酒を飲んで毎日騒いでいればいいのだから、退屈だが、大よろこび。しかし、湯は、金創にきく猿の湯である。こんな暴風雨《あらし》の晩も、欠かさず入浴《はい》りに行くところをみると。――
 さては、出羽守のからだは、秘すべき刀傷でも持っているのか。
 それはとにかく、この辺鄙《へんぴ》な山の湯と、二万八千石の大名と――これにはおおいに事情《わけ》がなくてはならない。

     狂笑剣

 ど、ど、どうっ! と屋根を轟かし、この藤屋を揺すぶって、三国おろしが過ぎる。
 二つ三つそこここに立てた行燈の灯が、すうっと薄らいで、また、ぱっと燃え立つ。
 酒乱の中之郷東馬、山路主計らの赤い顔が、瞬間、朱盆のように浮き上って見える。
「さあ! 殿のお声掛りじゃ。天下晴れて娘を引き摺《ず》って来い。」
「君命、もだしがたし――か。」
 そんなことを言って、川島与七郎は、足早に階段を上って行く。
 さかずきを口に、誰かが、
「君命ときた。こういう君命なら、貴公、いつでも引き受けるだろう。」
 与七郎が、上から答えて、
「うむ。買って出たいところだ。あはははは。」
 と、すぐ階上では、与七郎が法外先生の部屋の障子を開けたらしく、何かごそごそ言い合う声が、かすかに聞えて来る。
 階下の座敷では、一同しばらく天井へ注意を集めて、聴耳を立てていたが、やがて、東馬が、
「だいぶ手間取るらしい。」
「そりゃそうじゃろう。なにしろ、見ず知らずの武士の娘を、酒席へ引っ張り出そうというのじゃからな。」
「なあに、老いぼれが一人くっついておるだけじゃ。ぐずぐず言えば、おれが行って、首根っこに繩をつけてひき下ろして来る。」
「しかし、世にも艶《あで》やかなる娘じゃわい。」
「彼娘《あれ》に眼をつけるとは、殿もまた、持病が出たらしいぞ。えらい騒ぎにならねばよいが――。」
「なにを、分別らしいことを言う。さわぎと申したところで、父親をひっ掴まえて谷間の杉へでも、吊るし斬りにしてしまえば、後はこっちのものではないか。」
「そうそう! 殿のおあまりを順に頂戴して、あはははは。」
 この一行は、もうかなり長く藤屋に滞在しているのだけれど、この乱暴に恐れをなして、宿の者は、誰も近づかないのだ。
 夜も、更けている。
 雨の音と、咆哮する風と――母家のほうはすっかり寝しずまったらしく、男衆が一人、そっと土間を片づけにかかっているだけ。すると、その時である――。
「江戸下谷、練塀小路、法外流剣法道場主、弓削法外の贈り物じゃ! ありがたく取っておけ!」
 梯子段《はしごだん》の上に大声がして、一同は振り仰ぐ。
 声がするのみ――声の主の姿や顔は見えないが、広間の連中、何事? といっせいに見上げた。その面上へ!
 ぱら、ぱらっ!
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