以来のそちの稽古ぶりを見て、わしはとうから、これは何ごとか大望あって剣を励《はげ》むものと、この眼で睨んでおったぞ。」
 千浪も、私語《ささや》くように、
「それでこそ――でも、相手は一藩のあるじ、なみたいていのことでは――。」
 と、そう思うと、早くもその小さな胸は、夫ときめた大次郎の身を案じ、もう、潰《つい》えんばかりなのだった。
 きっと、形をあらためた大次郎、法外先生に向って、
「しかし、この復讐の儀につきましては、その方策、進行の模様など、いずれとも今しばらくは、不問に付しおかれますよう――。」
「解った。時機の来るまで、何も訊くまい。」法外老人は、千浪へ鋭く、
「そちも、このことは忘れるのだぞ、大次郎のために。よいか。」
「はい。でも、心でそっとお案じ申すことだけは、お許し――。」
「いや、それもならぬ。と言うたところで、これは野暮と申すものかの。ははははは、どうじゃ、大次。」
 赧く笑った大次郎、
「これはどうも――ははは。」
 真顔に返って、
「目下《いま》はひたすら、剣技をみがきます一心――。」
「そのこと! わしも外《よそ》ながら出羽の動静を――いや、言わぬというて、また――続けい話を。」
 姉を拉《らっ》し去り、父を殺され、母を自害させた祖父江出羽守を、大次郎が秘かに仇とつけ狙うのに、不思議はなかった。
 が、かたきを持つ身が、師の娘を恋し、養子に入り、養父《ちち》の名を襲って道場を受け継ぐ――それでもいいものだろうか。
 討っても討たれても、いずれ千浪に嘆きを見せねばならぬ。
 この大望のために、道場を捨てなければならない日もくる。
 それかといって、処女《おとめ》の純情と、老師の恩愛は、一片の理では断ち切れぬ。なによりも、千浪を求めて止まぬ己が恋ごころ――そこに大次郎の苦しみがあり、また、きょうまでこの秘密を、独り、胸に呑んできたわけなので。
 七年前の七月七日。
 田万里を散って下山する日に。
 当時村内で、大次郎と一ばん仲が好く、幼いころから田万の三人組、三羽烏と言われていた三人の若者があった。
 いずれも、田万の里に古い郷士の倅。
 年齢《とし》も、三人ともそのとき二十歳《はたち》で。
 伴大次郎。
 江上佐助。
 有森利七。
「三国ヶ嶽の頂上に、三国の鎮《しず》めとして三国神社というのがあります。三人|袂《たもと》をわかつ。そこの境内に登って、遙か山伏山の裾野の田万里に別れを惜しみ、その時、この三人の間で、出羽殿への復讐を固く誓ったので――神前に額ずいて、三人同時に金打《きんちょう》いたしてござる。」
 大次郎は、そう言って頭を低《さ》げた。
 力を得よう!
 毒には毒! 無法の力に抗する無法の力。
 この三羽烏の力を合わせて、他日必ず出羽守を討ち取り、父、母、姉、村人の恨みを霽《は》らす。
 その力は、何によって――?
「ここです! 毒に報ゆるに毒、無法の力に抗する無法の力――という、その毒、その無法の力とは、さ、何か――?」
 となって、三人寄れば文珠《もんじゅ》の智恵、伴大次郎、江上佐助、有森利七の三人が、あたまを鳩《あつ》めて考えた末。
 その時、神前の三人に期せずして閃めいた想念は、
「煩悩《ぼんのう》」――の二字!
 毒とは? ――煩悩!
 無法の力とは?――煩悩!
 畢竟《ひっきょう》、人間の力は、これ煩悩の一語につきる!
 この解釈《げしゃく》を得て。
 田万里をほろぼしたのは、荒れ狂う出羽守の煩悩悪血。
 それに返すに、この主人の煩悩力をもってする!
 煩悩力!――煩悩のちからほど、人を強くするものはあるまい。
 これは、三人にとって、三国神社のお告げとも思われた。
 お山の神様は、荒い神さまである。
 山の若者の復讐は、炎烈《えんれつ》、野火のごとくに激しいのである。
 この時から、煩悩の語は、三羽烏の執念となった。

     笹籤

 出羽守の煩悩に焼き払われた焦土の灰から、ここに、三つの煩悩の相《すがた》が立ち上ったのだ。
 煩悩で煩悩を制すべく。
 さて、名も金もない非力の三人が、煩悩によって金剛の力を獲るとは――?
 名も金もない――そうだ!
 男の煩悩に、三つありはしまいか。
 名、金、そして女。
 名誉慾。黄金慾。女慾――。
 人を動かす原因《もと》にこれ以外のものはなく、また、これ以上の力はない。有史以来、人間はこの三つの煩悩に駆《か》りたてられて、われも人もこの三慾のためにこそ、孜々営々《ししえいえい》と生命を削《けず》る歩みをつづけてきたのだ――現世は、名、金、おんなの煩悩三つ巴《どもえ》。
 男として、この三つを獲たものを強者という。
 祖父江出羽守は、この三つを三つとも有《も》っているではないか。名はもとより、金も、そして、女も。
 で、三人が三つの煩悩を追って、銘めい、各その方面で求めるものを掴み、他日なんらの形でその力を協《あ》わせて、煩悩出羽に立ち向かおうというので。
 この相談――誓約が成って。
 籤《くじ》を引いた。
 笹の葉を三つの長さに手折り、根元を隠して、三人が一ぽんずつ取る。
 一ばん長いのが「名」中が「金」短いのは「女」ということにして。
 その結果。
「名」――伴大次郎。
「金」――江上佐助。
「女」――有森利七。
 伴大次郎は、名誉を追う。江上は巨富をあつめる。そして有森利七は、女をという三人三役。
 何年か後、この大次郎の名利《みょうり》の力と、佐助の金力と、利七――女のちからとで、煩悩の怪物出羽を仕留めようとの策謀なのだった。
 復讐も復讐だが、この、どっちの道でも、三人いちように豪くなり、それぞれ受持ちの分野で力を得ねば、と、二十歳の青年らしい興奮も、あったに相違ない。
 三国神社のまえで、三人はこんな誓いを立てた。
 仇討ちの準備に、伴大次郎は、まず剣腕をもって世に名を取らん。
 江上佐助は、そのいざという場合のために資金を積む――いかなる方法でも!
 そして、「女」を引き当てた有森利七は、色道の習練で多くの女を手に入れ、それを十指のごとく使って、巧みに、好色出羽の身辺を絶えず探っていようという――いわば、一味の女間者の総元締めになるはず。
 それがまた、籤で決めたとはいえ、よく三人の柄に適《はま》った役割りで、大次郎は武を好み、佐助は、顔は二た眼と見られない醜面の生まれつきだが、おそろしく目端《めはし》がきいて、利に速い、これを商才に用いたら、必ず富豪ともなり得よう。そして利七は、山育ちだけれど、きりりとして苦み走った、まことに好い男で、色慾煩悩の籤を当てた時、
「ありがたい! 天下晴れて女狂いができる。」
 額部《ひたい》を叩いて笑った。
 三国ヶ嶽の三国神社から、三つの道が三方に下って、甲斐、駿河、相模へと、人間社会へ伸びている。
 三人の親友は、その三つの下山口《おりぐち》をとって、瓢々乎《ひょうひょうこ》として三国へ散ったのだった。ひとりずつ煩悩の分け前を追って――大次郎は相模路へ。佐助は駿河国へ。利七は甲州へ。
 が、三人とも、流れ流れて間もなく、いずれは煩悩の溜り所、江戸へ入り込んだに相違ない。
 その、別れる時の、もう一つの申し合わせは。
 今度、必ず七年目ごとの今月今日、七月七日に、三人、この三国ヶ嶽の絶項、三国神社の境内で落ち合い、その後の身の上を語り合って、連絡をつけようということ。
 そして、そのあいだの七年間は、音信不通《いんしんふつう》。各自、道につとめて、たとえ街上《みち》で行き会っても、言葉をかけること無用たるべし。互に生死も不明のまま、七年目七年めの七月七日に、忘れなく三国ヶ嶽で――会う。かならず、会う。こういう三羽烏の生命《いのち》をかけた起誓《きせい》である。
 そこで、この、はじめての七年目。
 二十歳の伴大次郎は、二十七になり、こうして、江戸下谷練塀小路、弓削法外道場第一の剣の名誉として、今この思い出の山麓へ帰って来ている。
 他の二人は、どうしたか。

     弥四郎頭巾

「こういうわけで、私はこの山へまいったのです。で、その約束の日を待っておりましたので――今日は、七月六日。」
「おう、そう言えば、三国神社へ集まるのは、明日じゃな。」
「佐助に利七のふたりも、生きておりますれば、今ごろ登山《のぼ》っておるさいちゅうでござろう。七月七日の夜の引き明け、という申しあわせですから――どれ、そろそろ私も。」
 無造作に起ち上る大次郎を千浪は、縋りつくような眼で見上げて、
「けっしてお留めはいたしませんけれど、でも、この大風、それに雨さえ――お父さま、どうしたらよろしゅうございましょう。ああ、あたしは、心配で――なりませぬ。」
「大丈夫。」大次郎は、もう、縁側へ踏み出していた。「明日の夕刻までに帰ります。いかな大風だとて、吹き飛ばされもせず、紙子細工ではござらぬから、濡れたところで大事ない。ははははは、二人に、この拙者を見せて、またふたりの苦心談を聞き、語りもするのがなによりのたのしみ――では、先生、千浪さま、行ってまいりまする。」
 黒七子《くろななこ》の紋つき着流しのまま、葛籠笠を片手に、両刀を手挾《たばさ》んで梯子段へかかる大次郎のうしろから、法外老人と千浪が送りにつづいて口ぐちに、
「ひどいあらしですこと。ほんとに、お山荒れ――。」
「七年前の七月七日も、恐ろしいお山荒れでござった。」
「せめて合羽《かつぱ》なと――それに、足拵《あしごしら》えもいたしたらどうじゃ。」
「そう遊ばしたら、後生ですから。」
「なに、かえって荷厄介《にやっかい》になります。同じ濡れるなら、このほうが気楽。つづら笠は、お山へかかっての三人の眼じるしにと、これも申し合わせのひとつで、はははははは――少し行ったら、着ものを畳んで、裸体《はだか》で登山《のぼ》ります。鍛練《たんれん》の機会ですから。」
「そうまで言うなら――。」
 と、階段の中途に立ち停まった法外先生、ふと思いついて、
「千浪、彼刀《あれ》を持ってまいれ。兼安《かねやす》を――大次ちょっと待て。」
 千浪は座敷へ引っ返して、床の間の刀架けから、だいぶ佩《は》き古した朱鞘《しゅざや》ごしらえの父の大刀を持って来て、はしご段のなかほどに待っていた法外に渡すと、老人は其刀《それ》を、肩越しに、二、三段下の大次郎へ差し出して、
「さ、守刀だ。これを帯して行け。その、お前の刀は残して、これと脇差と――。」
 ななめに振り返って、受け取った大次郎。
「これは千万! ありがたく拝借いたします。」
 自分の佩刀《はいとう》と差しかえて、残して行く刀は、千浪の手へ。
 千浪はそれを、人形のように両袖に抱き締めて、父娘《おやこ》は土間の上り框《がまち》まで、大次郎を送って出る。
 大次郎の腰には、兼安の朱鞘と、かれの蝋ざやの小刀と、異様な一対をなして。
「くれぐれも言うておくが、大次、けっしてその兼安を抜いてはならぬぞ。抜けば血を見る。や、こりゃ、わしとしたことが、門出に不吉な! 千浪、許せ。ははは、気に留めるな。じゃが、大次郎、刃元に浮かぶ一線の乱れ焼刃、刀面に、女の髪の毛と見えるものが、ハッキリ纏《まつ》わりついておる。人呼んで女髪兼安《にょはつかねやす》、弓削家代々の名刀じゃ。しかし、必ずともに、その女髪を見んとて、鯉口《こいぐち》三寸、押し拡げるでないぞ。抜かぬ剣、斬らぬ腕、そこが法外流の要諦《ようてい》じゃ。女髪を覗いて、伝えらるるがごとく、邪心を発し、渦乱を捲き起してはならぬ、よいか。」
「女髪兼安の由来、かねがね承わって存じております。抜きませぬ。御免!」
「おう、行くか。」
「お気をつけなされて。」
 阿波の住人、右近三郎兼安|鍛《きた》えるところの女髪剣。鮫は朝鮮の一の切れ、目貫は金で断の一字、銘を天福輪《てんぷくりん》と切った稀代《きだい》の剛刀――ぐいと、背後《うしろ》ざまに落とし差した下谷の小鬼、伴大次郎、黒七子の裾を端折ると一拍子、ひょいと切戸を潜って戸外《そと》へ出た。
 まっ黒な夜ぞらの下、銀の矢と降る雨、
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