りますが、行ってみたところで、その淋しさに胸を打たれるに相違ない、と今はまだ、とても帰ってみる気にはなれませぬ。で、私が、先生と千浪さまのお供をして、黙ってここへまいりましたのは、その山伏山のかげのむかしの田万里を、ひそかに訪れんがためではござりませぬ。」
 今年で、ちょうど七年まえのことである。
 千代田城菊の間出仕、祖父江出羽守《そふえでわのかみ》の狩猟地《かりち》だった田万里は、殺生を好む出羽守のたびたびの巻狩《まきが》りと、そのたびごとの徴発、一戸一人の助《す》け人足、荷にあまる苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》のために、ついに村全体たってゆけなくなり、出羽守へ万哭《ばんこく》のうらみのうちに、一村散りぢりばらばらに、住み慣れた田万里を捨てて村人は、他国に楽土を求めて、思いおもいに諸国へ落ち延びたのだった。
 祖父江出羽守の猟座《かりくら》、山伏山の田万里は、こうしてあくなき殿の我慾の犠牲《にえ》に上げられて、一朝にして狐狸《こり》の棲家《すみか》と化し去ったのだった。
 法外流のつかい手、下谷の小鬼と名を取った伴大次郎は、奇《く》しくもこの田万里の出生だという。
 山の湯宿《やど》の夜ふけ――。
 恋する男の身に纏《まつ》わる悲惨事に、千浪は、現在《いま》のできごとのように眉をひめて、
「初めて承《うけたま》わるお痛わしいおはなし、なんとも申しあげようがございません。村の方々をはじめ大次郎さまも、さぞ、さぞ口惜しく思召して――。」
 大次郎の面上、いつしか蒼白なものが漲《みなぎ》っていた。
「今だからお話いたしますが、祖父江の殿様のやり口というものは、それは、それはひどいものでござりました。猟場とはいえ、人の住む村を、たんにおのが遊びの庭とのみ心得て――法外先生っ! 千浪さま! 言わしていただきます。かの祖父江出羽守は、きゃつ、人間ではござりませぬぞ。鬼畜!――人外でござる!」
 膝を掴む大次郎の手が、悲憤の思い出にわなわなと打ちふるえるのを、法外は温みの罩《こ》もった、だが、きっとした低声《こえ》で、
「これ、大次、口をつつしめ!」
「お言葉ではございますが、しかし――。」
「わかっておる。それに相違ないが、なあ伴、山役人は、あれで仲なか耳が早いでな、よいか。あっはっは。」
 大次郎、なみだを持った眼を伏せて、
「は。ちと、ことばがすぎましたようで。」
「いや、なに、そちの申すとおりではあるが、そこがそれ、下世話にもいう、壁に耳あり障子に眼ありでな――。」
 法外先生、急に声をあらためて、
「若いぞ、大次郎!」
「おそれいりました。」
 と頭を低《さ》げて、大次郎は今さらのように、隣室のけはい、縁の闇黒《やみ》へ注意を払った。
 お山荒れの先触れか、どうっ! と棟を揺すぶって、三国|颪《おろし》が過ぎる。
 さっき猿の湯から帰ってきた侍たちが、真下の座敷で、胴間声で唄をうたいだしていた。

     出羽守行状

「出羽守が人数を率《ひき》いて狩猟《まきがり》をしたあとは、全村、暴風雨《あらし》の渡ったあとのごとく、青い物ひとつとどめなかった惨状でござりました。」
 血のにじむほど口びるを噛み締めながら、大次郎は、しんみりとつづけて、
「これは、千浪様のまえでははばかりますが、すこしでも見目のよい若い女で、出羽守に犯されずにすんだものはありませぬ。したがってその家老めら、取りまき家臣ら、猟り役人、勢子《せこ》の末にいたるまで、役徳顔におんなをあらしまわり、田万里の村じゅう、老婆のほかは、ひとりとして逃れたものはござらぬ。まことに、口にもできぬことでござるが、人の母といわず、妻と言わず――これが年々歳々いつも猟りには付きもののこと! 今から思えば、村びと一同、よくあれまで踏みとどまったもので。」
 聴いている千浪の口から、ほっと溜息が洩れる。
 この阿弥陀沢は、山ひとつこっちで領主が違う。
 それは、田万里だけが受けた災害だった。
 狩りに事よせては、人妻、娘を漁りに来る。
 さからえば一刀にお手討ち。
 さむらいたちは、山家《やまが》に押し入って金目のものを、手あたり次第に略奪する。――これを御奉納と称して。
 山肌に拓《ひら》かれたわずかの田畑は、自儘《じまま》に馬蹄《ばてい》に掘りかえされるし、働き手の男は、山人足に狩り出される。その上、何やかやの名目で取り立てられる年貢、高税の数かず――。
 土けむりを上げて、風のように馬を飛ばして来ては思う存分荒らし廻って行く出羽守主従だった。
 そのあとには、鬼啾《きしゅう》と、憤《いきどお》りのなみだと、黙々たる怨恨《えんこん》が累々《るいるい》と横たわり重なってゆく。
「あまりといえばあまりな、殿のお仕打ちでした――。」
 と大次郎は語を切って、灯に顔をそむけながら眼を擦った。
「ほんとに、お察し――でも、今までおうち明け下さらなかったことが、なんだかお恨みのようにも――。」
 千浪のことばを遮って、法外老人は、
「伝奇稗史の類の暴君にもまさる。いや、さような大名がおるから、民の怨嗟《えんさ》を買うて、人心いよいよ幕府を離れ、葵《あおい》の影がうすらぐのじゃ。祖父江出羽は――あれは、藩地は、たしか遠州相良《えんしゅうさがら》――。」
「は。石高二万八千石、江戸の上屋敷は、神田一番原、御火除地《おひよけち》まえにござります。」
 そう答える大次郎の顔を、法外はじっと見据えて、
「大次――!」
「は。」
「そちは、なんじゃな。」――と法外先生、ぐっと声を落としてさし覗くように、「復讐を企ておるな、出羽に対して!」
「いや、これは先生のお言葉とも覚えませぬ。」大次郎は、あわてて、「いかに恨みに思えばとて、相手は一藩の主、手前は郷士上りの一武芸者、竜車《りゅうしゃ》に刃向う蟷螂《とうろう》のなんとやら、これでは、頭《てん》から芝居になりませぬ。あは、あはははは。」
 法外老人は、例の、冷やかな眼でにっこりして、
「隠すな、大次郎。」
 美しい顔を義憤に燃やして、千浪も傍から、
「おんなの口を挾む場合ではございませんが、及ばぬながらもお懲らしなさるが武士の意地――本懐とやらではないかと思われますけれど。」
 血の気が引いて、氷のように澄んだ大次郎の眼に、突然、大粒の涙がきていた。
「わたくしに、姉がひとりございました。ひとつ上で、当時二十一――柴刈り姿が出羽守のお眼にとまって、猟りの人数が下山のとき、お側に召されて引っさらわれました。今はもう生きておりますかどうか――。」
「えっ! お姉さまが!――まあ、そんなことまであったのでございますか。」千浪は、痛ましげに父に眼を移して、「でも今まで何年も道場にいらしって、そういうお身の上のことは少しもお話し下さらなかったことを思うと、なんでございますか、ねえ、お父さま、ほんとに水臭いような――。」

     桃の七年

 千浪のことばも耳に入らないらしく、大次郎は、物の怪のついたような静徹《せいてつ》な声だった。
「その姉を奪い返そうとして、父は単身行列へ斬り込んで一寸刻み――膾《なます》のような屍骸でした。今も、眼のまえに見えるようです。」
「あの、お父うえが――。」
 叫ぶようにいって、千浪は、法外と眼を見合わせる。
 法外は、ううむと唸っただけだった。膝に話しかけるように、うつむいたまま大次郎は語をつないで、
「そのため母は、遠州相良の空を白眼《にら》んで、自害してはてました。」
 千浪も法外も、うな垂れるばかり――言葉もない。
 ややあって法外は、顔を上げ、
「その出羽守の暴状を、公儀へ訴え出る途もあったであろうに、なにゆえしかるべき当路者《とうろしゃ》へ、差し立て願いに及ばんだのかの――上も、それだけの狼藉《ろうぜき》ぶりを耳にしては、そのままに打ち捨ておくわけにはゆかんはずだが。」
「さ、それでございます。名主《なぬし》をはじめ村有志が、たびたび江戸表へ出府して、伝手《つて》を求めて訴え出ようとしたのですが、公儀も、この出羽守の乱暴を薄うす承知しておりながら、誰一人、田万里の哀訴《あいそ》を取り上げて老中に取り次ごうとする者のないのは、かの祖父江出羽守というのは、大老|中良井《なからい》氏の縁続きになっておりますので――それで、きゃつ出羽め、菊の間詰めのいわば末席ではありますが、柳営《りゅうえい》でもなかなか羽振りがよく、皆、大老の気を兼ねて出羽守の言動には御無理ごもっともの一点張り、触らぬ神に崇りなしの扱いだとのこと――出羽守もまた、これをよいことに、田万里の猟くらの惨虐は募る一方でござった――。」
「ふうむ、中良井の髯の塵を払って、幕政の面々、出羽の無道に眼を瞑《つぶ》っておったわけか。」
 山奥に住む無力の民は、こうして権勢を被《き》る狂君の蹂躙下《じゅうりんか》に放置されて、まき狩のたびごとに、上は出羽から、下は仲間小者のために、犯される女人、斬り殺されるもの、数知れず――。
 そこへ矢つぎ早やに絞るような年貢、納め物の取り立て。
 村ぜんたい、すっかり荒らされきって、一家一族は手を引き合って、思いおもいの方角に山を下り、猫の子一ぴき入って残らぬ無人郷。七年まえ。
 それから、廃村に桃の花が散り、七年の星霜を閲《けみ》した。
 長ばなしを終った伴大次郎、女性のような美しい顔に、きっと眉を吊って、
「はは、ははははは、下らぬ因縁話に、思わず身が入りました。お耳をわずらわして、おそれいります。」
 豁然《かつぜん》と哄笑《わら》うと、千浪はまだ打ち解《げ》せぬ面持ち。
「御一家ははて、お故郷《くに》はそういうことになり、ほんとうに、御心中お察し申し上げます――ですけれど、大次郎様、この新しいつづら笠、いいえ、今夜これからこの闇黒《やみ》の中を、夜みちをかけて、三里もある、三国ヶ嶽へお登りにならなければならないとおっしゃって、その理由《わけ》はまだ、ちっともお説き明かし下さらないではございませんか。」
 心配気に額部《ひたい》を曇らせて、千浪がそっと、戸外《そと》のやみに眼を配るとき、風は、いつの間にか烈しくなっていて――ぱら、ぱら、ぱらと屋根を打つ飛礫《つぶて》のような雨の一つ、ふたつ。
 どうやらお山荒れは、免《まぬか》れないらしい。
 階下《した》の座敷の放歌《ほうか》乱舞《らんぶ》は、夜ふけの静けさとともに高まって、まるで、藤屋を買いきったような騒ぎである。
「先刻《さっき》の話、な、大次郎。」法外先生が、膝を進めて、「そちとその二人――つまり三人が、七年目ごとにこの三国ヶ嶽の頂上で落ち合おうという約束、あのことも千浪に語って聞かせい。」
「力――世の中は力であるということを、私は田万里の滅亡を前にして、つくづく考えさせられたのです。」
 とすぐ大次郎は、誰にともなく口をひらいた。
 千浪は大きく頷首《うなず》いて、髪から、簪《かんざし》を抜き取った。そして、大次郎の口もとから眼を離さずに、横ざまに片手をさし伸べて、行燈《あんどん》の灯立《ほた》ちを均《な》らした。

     執念三羽烏

 七年前、田万里が亡んだ時、伴大次郎は二十歳《はたち》だった。
 同じ人間でありながら、大名であるがゆえに、力を有《も》っているがために、すべての悪虐非行を押しとおしてゆく――そのありさまを眼《ま》のあたりに見て、彼は、力だ! 力こそ万事を決定すると、若いこころにつよく、深く感じるところあったというのだ。
「力さえあれば、早い話が、出羽守に一矢《いっし》報《むく》いようと思えば、それもできるかもしれない。いや、これは、かりのはなしですが、世間は、力以外にはなにものもないと――。」
「話しちゅうだが。」と法外が、
「その、出羽に一矢報いようというのは、本心ではないのかな。」
 と声を低めて、
「大次郎、ここには、この弓削法外と千浪のほか、誰もおらぬ。打ち明けても仔細ないぞ。」
 大次郎の眼に、異常な光りがきていた。
「は、姉の行方を捜し、祖父江出羽殿のお命をお狙い申しております。」
「よく申した。七年前に出府入門
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