、口のうちにひとり言を噛みしめて、
「大次郎さまはこのお山に、何か御用がおありだという話のようだけれど、お父さまは、いったいいつ江戸へお発《た》ちになるおつもりなのだろう。」
うす闇の迫る温泉《いでゆ》のなかに、じぶんのからだが、ほのぼのと白く浮き出て見える。
もう墨を溶《と》かしたような湯なのだが手に掬《すく》い上げて見ると、空の余映を受けて岩清水《いわしみず》のように明るいのである。上半身に残光を浴びて、千浪は、両手に湯をすくってはこぼしいつまでも無心に戯《たわむ》れているのだった。
猿《ましら》のようなつづら笠の男――文珠屋佐吉が、つい今し方まで、高い真上の木の枝から、こっそり自分の裸形を見下ろしていたことなどは、千浪、もとより知るよしもなかったので。
裸に憑入《みい》る魔の葛籠笠と、この凶精《きょうせい》に取っつかれた美しい処女《むすめ》と――。
ばしゃ、ばしゃと湯の音が、暮れなずむ谷あいの森閑《しんかん》とした空気を破る。
千浪が、上り支度をはじめたのだ。
小さな波をつくって湯がうごくと、底に立っている彼女《かれ》の足が、くの字を幾つもつづけたように、ゆら、ゆらと砕《くだ》け揺れる。
「お猿が怪我をすると、何十里ものお山を伝わっても、この阿弥陀沢のお湯へはいって癒しに来るという。いつかも、負傷《ておい》の子猿を伴れた親猿が、この近所の木に棲《す》んで、何日もお湯へはいっていたという里の人のはなしだった。だから、いつのころからともなく猿の湯と呼び慣らわしてきたのだとのこと。それで、お猿が入浴《はい》っている時は、人間は遠慮して、できるだけ邪魔をしないのだそうな。」
と思い出した千浪は、今にも猿が来はしまいかと、急に恐ろしくなって、いそいで湯壺を出た。
人の見る眼はないが、むすめ十九、裸身《はだかみ》を屈ませて小走りに、素早く岩かげへ廻ると、何の設備《しつらえ》もないとは言え、女性の浴客のために建てられたささやかな脱衣場がある――竹を立て、莚《むしろ》をめぐらしたほんの掘立小屋。
ここへはいって、すぐ大きな矢羽《やばね》の着物に帯を廻した千浪は、
「まあ、いつの間にか、こんなに暗くなってしまって。ほんとに、わたしとしたことが気の強い。さぞお父様や大次郎さまが御心配のことでしょう。」
七月の初めではあるが、山は、夏を知らない。生乾《なまかわ》きの脛《はぎ》に袷《あわせ》の裾をさばいて、うねうねとした黒土の小道を、上の森陰の部落をさしていっさんに上って行った。
剣を取って江戸を風靡《ふうび》する弓削法外先生のひとり娘である。夜みちを怖いとは思わないが――。
すると、この時だ。
一ぽんの路を下りてくる多人数の跫音。
手拭いをぶら提げた丸腰の侍たちで、だいぶ前から藤屋の下座敷に陣取って、連日連夜騒いでいる連中である。
わるいところへ悪いやつらが――とは思ったが、すっとすれ違おうとすると、まっ先に立った一人が、藤屋とあるぶらぶら提灯を千浪の顔へ突きつけて、
「いよう! べっぴん! や、磨いた、みがいた。」
ぷんと酒の香がする。
「惜しいことをしたわい。もう一足早ければ、これなる菩薩《ぼさつ》のお臍が拝めたものを。わっはっは。」
また、ひとりが、
「いや、じつに尤物《ゆうぶつ》! 拙者は、送り狼の役を買って藤屋まで引っ返そう。」
下婢《げび》た笑いと揶揄《やゆ》のなかを、耳を覆った気で潜りぬけ、やっと藤屋へ走りこんだ千浪が、裾をおさえて梯子段を駈け上って、二階の部屋の障子をひらくと――。
「長湯じゃったな。いま見させにやろうかと思っておったところじゃ。」
高弟の伴大次郎と何か話しこんでいた父、法外が、しずかに首を向けて千浪を見上げた。
大次郎は、女とも見まごう整った顔に、若わかしい笑みを浮かべて、
「いま階下の連中が、大騒ぎして湯へ下りて行きましたが、そこらでお会いになりませんでしたか。」
が、答える先に、千浪の眼は、部屋の隅に置いてある一つのまあたらしいつづら笠に止まった。
山でかぶる葛籠笠。
千浪は、見るみる顔をかがやかして、
「まあ! では、いよいよ江戸へ発《た》ちますことに決まりましたんでございますか。」
でも、三人旅に笠が一つとは――?
大次郎が、にこやかに答えていた。
「いや、わたくし一人です。ぜひ今夜のうちに三国ヶ嶽へ登る用がありまして、今、宿の者に命じてその笠を取り寄せましたので――。」
女鹿男鹿
それから数刻の後。
膳部を下げた藤屋の二階には、江戸ものには珍しい丸行燈《まるあんどん》のともし灯をなかに、法外、大次郎、千浪の三人が、五徳《ごとく》の脚形に三つにひらいて坐っていた。
山の庄屋のやしきをそのままに、旅籠《はたご》とはいっても、なんの手も入れてない八畳の座敷だ。
年代の山の霧に黒ずんだ建具に、燈りが、赧茶《あかちゃ》けた畳の目を照らして、法外老人の大きな影法師を、床の間から壁へかけて黒ぐろと倒している。
「ほほう。すると、七年目ごとにその三人が、この三国ヶ嶽の頂上で落ち合って、その後の身のありさまを語りあおうと言うのじゃな。ふふむ、そりゃおおいに面白いぞ。」
円明流から分派して自流を樹《た》て、江戸下谷は練塀小路に、天心法外流の町道場をひらいている弓削法外、柿いろ無地の小袖に、同じ割羽織を重ね、うなずくたびに、合惣《がっそう》にとりあげた銀髪が、ゆさゆさと揺れる。
法外有法《ほうがいほうあり》――の語から取って法外と号し、流名もこれからきている。
剃刀《かみそり》を想わせるほそ長い赭顔《しゃがん》に、眼の配りが尋常でないのは、さこそと思わせるものがあった。
「そりゃおおいに面白いて。」
そう言って、じろり、大次郎を見やって笑ったが、眼だけは笑いに加わらない。
法外先生の眼は、いつも鋭く凍っていて、かつて笑いというものを知らないのである。
あけ放した二階縁の手すりに、近ぢかと迫って見える三国ヶ嶽のすがた――山気を孕《はら》んだ風が、濡れた布のように吹き込んできて、あんどんの灯をあおる。
千浪が、そっと上眼づかいに大次郎を見あげて、
「どういうお話でございましょう。わたくしは、途中から伺いましたので、よくわかりませんけれど――。」
大次郎は、優しい顔に似げなく額部《ひたい》の照りに面擦れを見せて、黒七子《くろななこ》紋付きの着流し、鍛え抜いた竹刀《しない》のように瘠せた上身を、ぐっと千浪のほうへ向けた。
「弱りましたな。これは、千浪さまにはお耳に入れたくなかったのですが――、御案じなさるといけませんから。」
「かまわぬ。話してやるがよい。」法外は、ちらと、若い二人を見くらべて、「遠からず大次郎を千浪の婿に、ははは、ま、仮祝言《かりしゅうげん》だけでも早うと考えておるわしの心中は、そちらも薄うす知ってであろう。いずれ夫婦《めおと》となるものならば、互いに苦も楽も、何もかも識り合うたがよい。」
いつからともなく、命までもと深く慕い合っている大次郎と千浪――さきごろから父の許しで、今はいいなずけとなっている二人である。剣腕人物、ふたつながらに師のめがねに協《かな》って、やがてその一人むすめを恋妻に、二代法外を名乗って弓削家へ養子にはいろうとしている伴大次郎と、おんなの誠心《まこと》のすべてを捧げて、かれを縋《すが》り迎えようとしている千浪と。
今度の旅に千浪を伴ったのも、父法外としては、人の世の蕾《つぼみ》のようなふたりの胸を察すると同時に、旅ともなれば気散じた朝夕に、もっと二人を近づけて、打ち解けて心を語らせ、たがいによく知り合わせたいという、父親らしい、大きな思いやりと気くばりからだったに相違ない。
この、法外老人の計らいは、恋しあう若人のうえに、どんなによろこびを齎《もたら》したことだったろう! そのあみだ沢へ来て以来、ふたりは雌鹿雄鹿のように、ほがらかに山をあるき廻って、心ゆくばかり語らい、よく気ごころを知り合って、いっそうたがいの思慕を深めたのだった。
そしてまた、法外にとって、この若い二人の睦《むつま》じい様ほどかれの老いたこころを慰め、ほほえませる絵はないのだ。
こうして、うつくしい健《すこや》かな千浪と、練塀小路の小鬼、美青年伴大次郎とは、男女の規《のり》を越えない潔い許婚の仲をつづけて来ている。
で、今日。
そして、いま。
だしぬけに父に、近く仮祝言でもといわれて、われにもなく頸すじまで真っ赤にしてさしうつ向いた千浪を、大次郎はいつにも増して好もしく、愛《いと》しく思いながら、
「じつは、私の身に秘めた大事なのですが――。」
と、口をひらいた。
夏といっても序の口なのに、高山《やま》の暦は早い。沈黙が部屋に落ちると、庭に取り入れたうら山々、しんしんと降るような虫の声。
とたんに、
「おう! あれを見さっしゃれ。三国さんの肩に、月が葛籠笠をかぶりおるわい。」
宿の男衆の大声が、階下の土間に湧く。
変なことをいうと思っていると、いあわせた土地の人が、つづいて覗きに出たらしく、
「わ、こりゃなんとしたことじゃい。皆の衆、出て見やれ。三国ヶ嶽のお月さんが、円ういつづら笠をお被《かぶ》りじゃぞえ。」
あとは、口ぐちに、
「月の笠じゃ。お山荒れの兆《しる》しじゃぞな。」
「ついぞないハッキリしたお被りものじゃが、えらい荒れにならねばよいて。」
「久しゅうお山がお静かじゃったが、あれで見ると、今夜のうちにもおいでじゃな。」
思わず耳をすました階上《うえ》の三人――。
重い夜風が部屋を走り抜ける中で、千浪は、何がなしにはっとした顔を上げて大次郎を凝視《みつ》めた。
猟くら悲誌
こんな山奥――三国ヶ嶽のふもとの阿弥陀沢に、猿の湯などという温泉のあることは、千浪はもとより、弓削法外も知らなかったので。
ここへ入湯に来ることを言いだしたのは、この門弟筆頭の伴大次郎なのだった。
しばらく暇を貰って三国ヶ嶽へ往ってきたい――下谷練塀小路の道場で、こういきなり大次郎が願い出た時、師の法外はちょっと考えて、わしも一しょにと膝をすすめた。そして、娘の千浪を連れて、と。
それならば、ちょうど、山のすぐ下に珍しい湯の宿があるから暫時《ざんじ》それに逗留《とうりゅう》なさるのも一興であろうと、この大次郎のことばに従って、道場は留守師範の高弟に預け、父娘師弟の三人づれ、そこはかと江戸を発《た》って来たわけ。
これが、もう、半つきほどまえのこと。
山中、暦日なし。
のんべんだらりと滞在して、山の宿屋めしにもあきてきたが。
元来法外は、じぶんもいささか旅にでも出て都塵《とじん》を洗いたい気持ちもあったし、それよりも、気らくな旅の起《お》き臥《ふ》しに、まず二人を親しませたい心づかいから、折から大次郎が言いだしたのを幸い、かれを案内に立ててあたふたと、ああしてこの深山《みやま》の湯へ分け入って来たのだけれど、そういつまでも江戸の道場を空けておくわけにもいかない。
きょうは帰ろう、明日は発とうと思うのだが、大次郎ここに何か目的《めあて》があるらしく、しきりにその日を待つようすで、いっかな腰を上げようともしない。
そのうちに、どうやら法外も山に根が生えた気味で、とうとう三人、今日まで藤屋に日を重ねてきたのだけれど。
その、大次郎の待つめあてとは何か。
第一、かれは、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な場所を知っていて、そして何しにここへ来、今まで動こうとしなかったのか――。「身許を包んでいたわけではありません。ただいま先生にも申し上げましたが、私は、この近所《きんぺん》の、山伏山のむこう側にあたる田万里《たまざと》というところの生れで――。」
眼の大きな、すっきりした顔を千浪へ向けて、伴大次郎が静かに語りだした。
「その村は、わたくしの一家は死に絶え、一村ことごとく離散して、今はあと形もありません。私としては、家ひとつない昔の部落《むら》あとにも、言いようのない懐しさを抱いてお
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