煩悩秘文書
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)女髪兼安《にょはつかねやす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三国《みくに》ヶ|嶽《だけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぞくっ[#「ぞくっ」に傍点]とすらあ!
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深山の巻――女髪兼安《にょはつかねやす》――
猿の湯
岩間に、黄にむらさきに石楠花《しゃくなげ》が咲いて、夕やみが忍び寄っていた。
ちょうど石で畳んだように、満々と湯をたたえた温泉《いでゆ》の池である。屹立《きつりつ》する巌のあいだに湧く天然の野天風呂――両側に迫る山峡を映して、緑の絵の具を溶かしたような湯の色だった。
三国《みくに》ヶ|嶽《だけ》を背にした阿弥陀沢《あみださわ》の自然湯――。
白い湯気が樹の幹に纏《まつ》わる。澄んだ湯壺の隅に、山の端の夕月が影を落していた。
「なんという静かさだろう! まるで大昔のような――。」
千浪は、あたまの中で独り言をいいながら、透きとおる底の平たい小石を、珍しげに数えはじめた。
岸の岩に項《うなじ》を預けて、彼女《かれ》は深く湯に浸かっている。十九の処女《おとめ》の裸形は、白く、青く湯のなかに伸びて、桜貝を並べたような足の爪だ。小さな花びらが流れ付いたと見える乳首である。うす桃色に上気した、くっきりと美しい顔が、魅されたように、いつまでも湯底を覗いている。
耳の痛くなるような山の静寂《しじま》――。
頭の上に覆いかぶさる深い木立ちは、いま、宵へ移ろうとして刻々に黒さを増し、空を屋根のこのいで湯の表は、高い夕雲の去来を宿して、いっそう深沈《しんちん》と冴《さ》え返ってくる。
谷あいに群立つ岩のあいだに、一枚の小鏡を置いたよう――落葉松《からまつ》、白樺、杉、柏、などの高山のみどりを縫って、ほのかな湯の香が立ち迷い、うえの尾根を行く人には、この沢壺《さわつぼ》の湯は、茶碗の底を指さすように眼に入るのである。
だが、旅人の通る道すじではない。
ましてこの夕ぐれ時、父の法外《ほうがい》も、あの大次郎様も、この上の森かげのたった一軒の湯の宿――それも、宿屋とは名ばかりの藤屋で、夕餉《ゆうげ》の膳を前に自分の帰りを待っているだけで、今どきこの湯つぼへ下りて来る人はあるまいと、千浪は安心して、惜気《おしげ》もなくその身体《からだ》を湯に嬲《なぶ》らせて、上ることも忘れたふうだった。
逢魔《おうま》が刻《とき》という。
山の精にでも憑かれたのか――やがて、涼しい声が千浪の口を洩れて、
「ひとうつ、ふたあつ、三つ――、四つ、いつつ、六つ、七つ――。」
数を唱《とな》えだした。興に惹かれるまま唄のように節をつけて底の礫《こいし》を読んでいるのだ。
「九つ、十、十一――。」
一つは二つと、思わず、声が高くなった。
その声が、魔を呼んだのである。
「はてな――?」
と小首を傾けて、その時、この阿弥陀沢の頂きを急ぎ足に来かかった葛籠笠《つづらがさ》が、はたと、草鞋《わらじ》を停めた。
「声がする。待てよ。女の声のようだが――。」
ふかいつづら笠に面体は隠れて、編目の隙に、きらりと眼が光るだけだが、道中合羽《どうちゅうがっぱ》に紺脚絆《こんきゃはん》、あらい滝縞の裾を尻端折《しりばしょ》って、短い刀を一本ぶっ差した二十七八《しっぱち》のまたたび姿。
「ううむ! 好い声だなあ。この文珠屋佐吉《もんじゅやさきち》の足をとめる声、聞いていて、こう、身内がぞくっ[#「ぞくっ」に傍点]とすらあ!――駿《すん》、甲《こう》、相《そう》の三国ざかい、この山また山の行きずりに、こんな、玉をころがす声を聞こうたあ、江戸を出てこの方、おいらあ夢にも思わなかった。おお、何か数えている声だが――。」
右手に谷を望んで、剣の刃わたりのような一ぽん路だ。草のなかの小径に、釘づけにされたように歩を忘れた男の耳へまたしても響いてくる銀鈴の山彦――。
「下から聞える。それに、湯のにおいがする。」男は片手を耳屏風に、「十一、十二、十三――何を数えてるのか知らねえが、とんだ皿屋敷だ。ここらは猿の棲家《すみか》だてえから、定めし狐も多かろう。化かされめえぞ。」
と、歩きかけたとたん――木の間をとおして、閃めくように眼に入った眼下の湯の池と、そして、そこに何を認めたのか、江戸の文珠屋佐吉と自ら名乗るその男は、ひた、ひた、と吸い寄せられるように路を外れて、歯朶《しだ》を踏みしだき、木の根を足がかりに、たちまち、そこに、谷を覗きぐあいに生《は》えている一本の山桂の枝へ、油紙包《ゆしづつみ》の振分《ふりわ》けを肩にしたまま、ひょいと飛びついた。
ひらり!
奇怪! なんという身の軽い男!
天然露天の風呂の真うえに高く、自分こそまるで、猿のように、枝の繁みに身をかくして。
そっと窺う文珠屋の顔が、葛籠笠の中で、にたりと笑った。
はるか下に、岩のあいだに湯を使う山の人魚がある。
三国ヶ嶽のふもとに、木樵《きこり》や猟人《かりうど》のみ知る無蓋自然の温泉《いでゆ》で、里の人は呼んで猿の湯という。
富士も、ここまで来ると低い。
靉靆《あいたい》たる暮色が、山伏、大洞、足柄の峰つづきに押し罩《こ》もって、さざなみ雲のうえに、瘤《こぶ》のように肩を出している宝永山の一面にだけ、相模潟の入り陽が、かっと照り映えていた。
胸突き三里
甲斐、駿河、相模と――三国が三角点に境を接している三国ヶ嶽。
東はさがみの足柄郡《あしがらぐん》、西、するがの国|駿東郡《すんとうぐん》、そして、北は甲斐の都留郡《つるぐん》である。この三つの国が、富士の裾の籠坂峠《かごさかとうげ》から一線に延びる連山の一ばん高いてっぺんに出会ったところが、この三国ヶ嶽で、いうまでもなく、訪う人も深山《みやま》の奥だ。
阿弥陀沢は、この三国ヶ嶽のすぐ下にある。朝夕、檐《のき》の端に富士を仰いで、春から夏を飛んで、すぐ秋虫の音を聞く山家住まい、あみだ沢は山あいに五、六軒の草葺《くさぶ》きが集《かた》まって炭焼き、黒水晶掘り、木こりにかりうど、賤機木綿《しずはたもめん》、枝朶細工《しだざいく》などを生業《なりわい》の、貧しい小部落だった。
が、温泉《いでゆ》が出る。と言っても、部落から小半町下りた谷間の岩に。
稀《たま》に、山越えの諸国担ぎ売りが宿をとるくらいのもので、もとより浴客《よっきゃく》などはないのだから、温泉とはいっても、沢の底の奇巌のあいだに噴き出るに任せ、溢《あふ》るるままに、ちょうど入浴《はい》りごろの加減のいい湯が、広やかに四季さまざまの山の相《すがた》をうつしているだけ、村びとは屋根ひとつ掛けず、なんらの手も加えていない。
岩からいきなりあつい湯へ飛びこんで、鼻唄まじりに富士をあおごうという寸法。
風流――などとは他国者のいうことで、遠国から旅をかけてわざわざ湯にはいりに来るものがあろうとは、阿弥陀沢の人は、何百年来誰ひとり考えてみたこともなかった。
湯治《とうじ》などという語《ことば》は、あみだ沢にはないのだった。
で、前の谷の猿の湯は、長いこと、猟人が峰づたいの山狩りの汗を洗い、炭やきが、煤煙《すすけ》を落すだけの場所だったが――それがこのごろ、遙か下の町の人々にも知れて来たとみえて、ぽつぽつ入湯の客が登山《のぼ》って来る。遠く、山にとっては外国のようなひびきを持つ、花の都のお江戸からさえも、といっても、月にふたりか三人の逗留客があるにすぎないが、それでも、上って来る者のあるのに不思議はないので、じつはこの猿の湯は、さながら神薬《しんやく》と言っていい霊験《れいげん》を有《も》っているのだ。
きく。打ち身、切り傷にうそのようにきく。
たいがいの金創《きんそう》は、三日の入浴で肉が盛り上り、五日で傷口がふさがり、七日でうす皮が張り、十日ですっぱり痛みが除《と》れて、十五日目には跡形もなく、一月もいれば、傷あとを打っても叩いても、何の痛痒《うずき》も感じないという。
ことに、二つき三月とこの猿の湯に浸《つ》かりあげれば、年どしの季候の変り目に、思い出したようにふる傷が泣くということがない。
別人のような達者なからだになって山を下りられる――と旅の者の口が披露《ひろ》めて、おのずから諸国へ散ったのであろう。この、幕運ようやく衰えかけて、天下なにとはなしに騒然たる時節である。肩から背へ大きく繃帯して、葛籠笠に顔を包み、山ふじの杖をつく武家すがた。賭場の喧嘩《でいり》で長脇差を喰らったらしいやくざ者など、そういった物凄い手傷者《ておい》が、世をはばかり気に爪さき上り、山へ、この阿弥陀沢へ、と志すのだった。
相模から登る者は山北路。
駿河路は、竹の下みちから所領《しょりょう》、中日向《なかひなた》とまわって、
甲斐筋は、勘治村から道士川を越える。
その誰もが、傷もつ身。世を忍ぶ面をかくして、山露をしのぐよすがのつづら笠――。
猿の湯をとりまいて、三国ヶ嶽の麓に唄ができている。
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あみだ上りはみな葛籠笠、どれが様やら主じゃやら
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で、杣《そま》しか通わなかった道に、湯治客の草鞋のあと繁《しげ》く、今は、阿弥陀沢村の一戸にまあたらしい白木の看板が掲がって――御湯宿、藤屋。
内湯ではないから、客は、藤屋から山下駄をはいて、小みちづたいに、谷底の猿の湯まで下りるのである。
だが――。
文珠屋佐吉は、金創をもつ身体《からだ》ではない。
桂の枝にぶら下がって、真下の猿の湯に千浪の裸体《はだか》をさんざん眺めあきたかれ佐吉、ふたたびかるく枝をゆすぶって、元の小径へとんと[#「とんと」に傍点]跳びかえると、
「いい女だなあ。どうやら、山の娘っこじゃあねえらしいぜ。おいらの面さえ、こんな化けものでなかったら――。」
と心から口のなかで呟いたが、恐ろしいことに触れたようにぶるぶると口びるを鳴らして、かれはさっさと歩き出していた。葛籠笠の奥ふかく、にたり、にたりと蒼い微笑を洩らしながら。
谷について一町ばかり上ると、こんもりした森の向うに、小さな家の集団《かたまり》が見える。阿弥陀沢の部落である。なかに、庄屋づくりの白壁の家が、一軒しかない。旅籠藤屋なのだ。
ここへ泊るのだろうと思いのほか、文珠屋は、村の入口から道をかえて、不意に横へきれた。
胸を突く小坂が、まっすぐ、宵やみの雑木林の奥へ消えている。三国ヶ嶽の登山ぐちである。
これから上に、家はない。
この夕方から夜みちをかけて、文珠屋佐吉、三国ヶ嶽へのぼろうというのだろうか。
なにしろ――。
そして、この文珠屋とは何者?
間もなく、佐吉のつづら笠は、あみだ沢の家々を遠く下に見て、三里の上りを、三国一点の頂上をさしてすたすた[#「すたすた」に傍点]いそいでいた。
さながら、空ゆく風――疾《はや》い足だ。
第二の葛籠笠
斬り傷、金創の入湯客が多い。
自然、人別あらための山役人の眼がきびしい。
山奥ながら、宿屋とあれば、藤屋も宿帳を一冊備えて、――この宿帳に。
半月ほど前に名を記して、今だにずっと滞在している三人づれの江戸の客というのは、
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下谷練塀小路《したやねりべいこうじ》 法外流剣法道場主
弓削法外《ゆげほうがい》 六十三歳
同人娘 千浪《ちなみ》 十九歳
法外門人 伴大次郎《ばんだいじろう》 二十七歳
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「ほんとうにお父さまは、どうしてこんな淋しいところに、こうしていつまでもいらっしゃるのかしら――。」
黒ずんできている湯だ。湯気が白く眼立つ。もうすっかり暮れてしまったのに、千浪は上ろうともせず、腰から上を湯のうえに見せて、天然の湯船をなしている岸の巌に、凭《よ》りかかって立っている。
江戸育ちで、千浪は、賑やかなところが懐しいのだった。
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