か。それじゃあ一っ走り報せに行って、引き取ってもらうなり、とっくり相談してみたら――。」
「うん。大次郎の旦那も、どんなにかお喜びなさるに違えねえ。じゃ、そういうことにしよう。」
宗七が自分の服装《なり》を見下ろして、
「おう、これじゃアあんまりだから、小ざっぱりした着物《もの》とあっちの帯を出してくんねえ。」
「あいよ。」
とお多喜は、押入れへ首を突っ込んで、
「だけど、どうしてこんな可哀そうなことになったんだろうねえ。あたしゃ見ていて、いっそ泪が出てしようがないよ。」
「何か深え事情《わけ》があるらしいが、なにしろ、こっちの言うこたあ通ぜず、おまけに口をきかねえんだから、始末におえねえ。」
が、小信が出羽に伴れ去られたことだけは知っている宗七、なにかこれは出羽守の暴状と関係《つながり》があるらしい、早くも察していっそう暗い気もちになりながら、一|本独鈷《ぽんどっこ》の博多の帯を廻しまわし、足を踏みかえて締めている最中――。
がらっ!
入口の格子が開いて、
「宗七、いるか。」
低い、しゃ嗄れ声が土間に。
ぼんのう小僧噂の聞書
「お、川俣《かわまた》の旦那――。」
と宗七は、たちまちもとの、人に対する時のへらへらした芸人口調に返って、
「ようこそお越しを、へへへへへ。」
ぴょこりと頭を低《さ》げて、上り口にすわった。
かれ宗七は、いわば二重人格なので。女たらしのほか能のない恋慕流しの宗七と、捕親として十手を閃めかし、繩を捌く時の彼と。
後のかれは、めったに見せたことがない。
普段はいつも、このから[#「から」に傍点]だらしのない、頼りにならない女殺し宗七――慣い性というとおり、もうこのほうがほんとうの彼なのかもしれない。三国ヶ嶽の頂上で、伴大次郎を涙の出るほど失望させたのも、このかれの半面――恋慕流しの宗七だった。
八丁堀の与力川俣伊予之進は、こういう宗七を知っているかして、その浮わついた態度も別に気に留まらない様子。
短い羽織の下から刀のこじりを覗かせたまま、その羽織の裾を習慣的にぽんと叩き撥ねて、あがり框に腰を下ろした。
三十一、二。浅黒い顔の、いかにも不浄役人と言った、眼のぎょろりとして鼻の鋭い侍だ。
「ようこそじゃあねえぜ。」と伊予之進は伝法《でんぽう》に砕けた調子で、「久しく他行《たぎょう》だったじゃあねえか。」
「へえ、じつあその、ちょっくら旅にね――。」
「ほんとに旦那。」お多喜が、手早く茶の支度にかかりながら口を入れて、「うんと油を絞ってやっておくんなさいましよ。さっきぶらりと、気が抜けたような顔をして帰ってまいりましてね、呆れ返るの雨蛙じゃアありませんか。」
「いや、お内儀《かみ》にさんざ叱られた後らしいから、おれあもう何も言うめえ。なに、おいらより、おかみの待ち焦れ方と言ったら――ははははは、なあ、お内儀、おめえ、ずんと痩せたようじゃあねえか。」
「あれま、旦那は相変らずお口の悪い。」
「なあに、里ごころがついて帰って来たんだ。思いきり可愛がってもらいねえ。」
「あんなことばっかり、ほほほ――どうぞ、ひと口お湿し下さいまし。」
お多喜の差し出した茶を、伊予之進は、大きな音を立てて啜ってから、
「時に、宗七――。」
「へえ。」
「へえじゃあねえ。ぱっちりとこう、眼を開けな。またお前の出幕が廻って来たぜ。」
「とおっしゃいますと?」
「宗七様の帰りを待ちかねていたんだ。またあの、煩悩夜盗があちこちに出はじめた騒ぎでな。」
「では、あの、煩悩夜盗と名乗る押込みが、また、お膝下を荒しているんで――。」
「うむ。この七年間、われらを愚弄し抜いてまいった煩悩夜盗だ。きゃつのためには、お互いたびたび苦杯を舐めさせられたことは、覚えがあろう。江戸に岡っ引なしとまで言われて――それが、先ごろより、またもや暴れ出したのじゃ。」
「それは存じておりやすが――。」
そう言って宗七は、じっと腕組をした。
煩悩夜盗というのは。
七年ほど前から深夜の江戸を荒らし出した怪盗で、警戒の厳重な富豪と言われる家のみを襲い、箱に入れて積んだ大金を担ぎ出して、しかも、何らの手がかりをも残さない。いや、手がかりといえば、いつも大きな手がかりがあるので――それは、この賊は押し入った家に、必ず「煩悩」の二字を書き残しているのである。
それが、誰いうとなく煩悩夜盗の名を取った謂《いわ》れでもあるが。
襖に、あるいは障子に、畳に、墨黒ぐろと大きな文字「煩悩」と――いつもきまって被害の現場に、雄渾な筆跡を揮《ふる》ってある。出張の役人、公儀、江戸中の人々を嘲るごとく、あわれむごとくに――。
一度などは、日本橋の質屋へはいった時、文晁《ぶんちょう》の屏風いっぱいにこの煩悩の二字が殴り書に遺されてあった。
御府内を恐怖と、疑惑の淵に追いこんでいる、この煩悩夜盗!
それが再び活躍をはじめたというので、
「もっとも、おめえが旅に出ていたこの十日間がほどは、煩悩小僧もじっとおとなしくしていたとみえて、押込みの届出もねえようだが――。」
川俣伊予之進が、しずかに言っていた。
何か思案の底に沈んでいた宗七は、この時、いつになく蒼白く緊張した顔を上げて、
「あっしが山へ行ってるこの十日のあいだは、煩悩小僧も出なかったとおっしゃるので。」
「宗七! おめえ何か心当りがあるんじゃあねえのか。」
心あたり?――なくてどうしよう!
彼にとって忘れることのできない、「煩悩」の語を冠した賊ではないか。
何者の仕業? ということは、宗七には早くから眼あてがついているのだけれど――その煩悩小僧の目的を知っている彼としては、手をだしたくない。出せない!
もうすこし、うっちゃっておきたい気もちだったのだが――。
志があって、非常手段で金を集めているに相違ないぼんのう小僧、そのうちに引っこむだろうから、邪魔したくないと思っていた宗七なのだけれど、またぞろ出没し始めたと聞いては、お役を承る身、このお捕物御免とは、逃げていられない。
ことに、恩顧のある川俣様御自身出向いての話――。
覚悟を決めた宗七が、
「ようがす。ひとつ、嗅《け》えで歩きましょう。」
と、腰を浮かしかけた時、今まで黙ってうな垂れていた小信が、突然、顔を上げて、
「ほほほ、だって、おかしいじゃないか。殿さまのくせに、女に斬られるなんてさ――。」
大きな、ハッキリした声だった。ぎょっとした三人の中で伊予之進は、初めて小信の存在に気がついて、
「えっ、何だって?――おう、宗七、なんでえ、この髱《たぼ》あ。」
川俣、聞き咎めた白い眼を、じろりと、宗七お多喜へくれた。
砥石店
お江戸の繁華は、ここ日本橋にひとつに集まって。
八百八丁の中央、川の両岸が江戸をまっぷたつに割って、江戸から何里、江戸へ何里という四方の道程《みちのり》は、すべてここを基準にしている。八方の人家、富士のすがた、日本六十四州からのお上りさんは、都へ来ると、誰しも、まず第一にこの橋を渡る。西のほうには千代田城の雄壮な眺め、物見の高殿、東の岸には、まるで万里の長城の酒庫の白壁がならび、そのむこうは眼もはるかに人家の海――。
日本橋と言えば魚河岸。
魚がしといえば日本橋。
川のうえの魚ぶねは、その苫《とま》を魚鱗《うろこ》のように列ねて、橋桁の下も、また賑やかな街をつくっている。
雑沓を極める橋の上の往来。
諸侯の行列にはいくつとなく長柄の槍が立って、さながら移動する林のようである。武士、町人、諸職、僧侶、男、女、こども、さまざまの車と、駕籠乗物、下駄の音が秋空にひびいて、切れ目もなくあわただしい。
近海物の魚を積んで、船は躍るようにはいって来る。河幅が狭いから、その混雑はたいへんなもので。
おもかじ!
とりかじ!
どなりあう声、声、声――。
橋の前後、新場町と小田原町に、毎朝うお市場が立つ。
なまぐさい風が橋を撫でて、この二十七間、日本橋の南の袂は高札場、ちょうど蔵屋敷、砥石店の前である。
「大次様! 大次郎さま――。」
ひき裂くような声に呼びとめられて、大次郎は、ゆっくりと振り返った。
練塀小路の道場を出て、これで何日経ったか。
あのままの姿の大次郎、祖父江出羽守と寸分違わぬ雪白《せっぱく》の弥四郎頭巾、白い絹に、黒で賽ころの紋を置いた着流し――こげ茶献上をぐっと下目に、貝の口に結び、此刀《これ》があの女髪兼安なのであろう、塗りの剥げかかった朱鞘と、じぶんの蝋ざやの脇ざしとを、奇妙な一対に落し差して。
この大次郎、下谷を出て以来、今までここに潜んで何をしていたのか――。
ぶらりと来かかった高札の前である。
呼ぶ声に何もの? と見向いたかれのまえに立ったのは、残して来た若妻千浪の、眉のあとの青い顔ではないか。
あたりはいっぱいの群集だが、みな御高札をふり仰いでいて誰も気がつかない。
「や! そなたは何しにここへ――また、何の用ばしござって拙者に声をかけられたか。」
大次郎様にしては、すこし声が太過ぎるようだ――と、千浪は思ったけれど。
それに。
頭巾の中から覗いている鼻柱も、赤く高く、眼が暗く澱《よど》んでいるようではあるが。
何も気のつかない千浪は、
「大次郎様――。」
ともう一度、低声につぶやいて、そっとその白覆面白装束の武士に寄り添《そ》った。
この千浪は、
良人大次郎は家出したものの、自分を嫌い道場を厭って去ったものとは、どうしても思えなかったので。
お顔がああ変ってからというものは、事ごとに自分に辛く当って、まるで別人のように忌《いま》わしい気立てになった大次郎ではあったけれど、あれは果して良人の本心だったろうかと、今にして千浪は、疑わざるを得ないのだった。
こう醜くなった自分に、良人として生涯仕えなければならないと努めている千浪を、いじらしく思って――千浪を自分から解放するために、ああ心にもない乱暴な言動をつづけて来て、あげくの果てに飛び出してしまわれたのではなかろうか。
つまり、千浪を愛すればこそ、千浪の一生を救うために、あの愛想づかしの末が家出ということになったに相違ないと、大次郎の出奔後、千浪は千々に思いを砕いた後、思いきって、こうして毎日江戸の町じゅうを、大次郎の影を求めて彷徨《さすら》い歩いて来たのであった。
千浪ゆえに荒んだ心になって、道場を棄てて巷へ出て行った良人――会って、縋って、泣いて頼んで、もとどおり練塀小路へ帰ってもらおう。
是が非でも、そうしなければ、死《な》くなった父上さま法外にも申訳がない。
そう思って。
と言うのは、この千浪、初恋の優しかった大次郎のおもかげを、夢に現《うつつ》に、忘れ得ないのだった。
真昼の狼
で、その大次郎をここの人混みで発見《みつ》けた千浪は、嬉しさにわれを忘れて、
「あれからずっとお探し申しておりましたが、運よくお眼にかかれて、わたくし――ささ、とにかく一応道場へお帰り下さいまし。千浪の心も、よっくお話し申し上げたいと存じますから。」
人の輪のすぐそとの立ちばなし。
高札に気を取られている群集の耳には、入らないらしい。
大次郎――と思われる人物は、その、弥四郎ずきんの中の眼を、かすかに笑わせて、千浪! さてはこの、あの猿の湯の藤屋にいた江戸の武芸者の娘は、千浪と言うのかと、ひとり合点《うなず》いた様子で、
「大次郎か。わしがその大次郎ということが、千浪殿にはよくおわかりになられたな。」
「はい。それはもう――。」
この江戸に。
白の弥四郎頭巾に白の紋つき――同じよそおいの伴大次郎が二人、あるいは、祖父江出羽守がふたり、さまよいあるいていることを、千浪は知っているはず、忘れるわけもないのだけれど、これと思う姿を人中に認めた喜びのあまり――千浪、この瞬間やはり忘れていたに相違ない。
恥らいを含んでそう言いながら、にっこり覆面を見上げると、
「さほどまでこの拙者を――かたじけない。千浪どのと伴れ立って道場とや
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