らへ帰るに異存はないが、まず、それより先、拙者の隠れ家というへ御案内申そう。そこでゆるゆる談合の上――。」
祖父江出羽守は、悪戯らしい微笑を頭巾に包んで、声を装《つく》って言った。
千浪は何ごとも気取らぬらしく、
「あの、下谷をお出になってから隠れていらしったお家へ、わたくしをお連れ下さるとおっしゃるのでございますか。」
いったいどこだろう? どんなところであろうかと、浅い女ごころに、もう面白そうな顔つきだ。
「さよう。拙者が下谷を追ん出てからの住いじゃ。では、こうまいられよ。」
と、真昼の狼。
ゆらり、片ふところ手。
かた手を、朱鞘の大刀の鍔元に添えて、のっしのっしと歩き出す。
その後から、ゆめかとばかりうれしげに、小走りについて行く千浪のすがた。
どこへ伴れて行かれることやら――。
と!
この時である。その、日本橋ぎわ御高札場に立った、新しい札の文句――。
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御示《おしめし》
数年来江戸町々にて押込みを相働き、財物を奪いて諸人に迷惑をかけし煩悩夜盗儀、またもや近ごろ諸処方々にあらわれ荒らし廻りおる趣。右煩悩小僧に関し、その人相、手がかり、声音等見聞きしたる者、または聞込みを得たるものは、何人によらず、なにごとに限らず、町役人を通じて早々お訴え出ずべきこと。
右計らいたる者は、特別の思召をもってお褒めの言葉及び金員若干、賜わるべきものなり。
月 日 南北奉行所
[#ここで字下げ終わり]
とあるのを、わいわい言って仰ぎ読んでいる群集の中で。
眉は歪み、眼はくぼみ、獅子っ鼻に口は大きく額部が抜け上って乱杭歯《らんぐいば》、般若の面のような顔がひとつ。
小銀杏《こいちょう》の髪。縞の着物に縞の羽織。大家の旦那ふうの文珠屋佐吉なので。
山では。
あみだ上りはみなつづら笠、どれが様《さま》やら主《ぬし》じゃやら――この文珠屋も、葛籠笠《つづらがさ》をかぶっていたから、あの時は顔容《かおかたち》は見えなかったが、こうして素面に日光を受けたところは――。
なるほど、いつぞや自分で洩らしたとおり、ぞっとするほど恐ろしい醜面。
この文珠屋佐吉が、微苦笑とともに高札から眼を離して、むこうの人ごみで立ち話をしている白ふくめんと千浪の様子を、しばしじっと見据えていたが。やがて。
嬉々として出羽守と伴れ立って去り行く千浪のあとを、見送ると、佐吉、物凄い笑いに眼を光らせて、傍らに立っている若い男をかえり見た。
「由や、御苦労だが、ちょいとあの二人をつけて、はいった家《ところ》を見届けてくんねえ。」
文珠屋佐吉の乾児《こぶん》で承知の由公、こいつ、名打ての尾行《つけ》や張込みの名手なので。
「承知!」
と、綽名にまでなっている得意のひと言、由の字、もう、とっとと小刻みに、流れるような通行人を楯に身を潜めて、消えて行った。
先の二人は、橋をわたって室町一丁目、二丁目、本町――神田のほうへ。
後から由公、見えがくれに鼻唄まじり。ずっと橋を渡りきるあいだ、それを見送っていた文珠屋佐吉は、安心したのか、にやっとほくそえんで歩き出していた。
口を利く鬼瓦
東へ下がって思案橋を過ぎ、堀留から大伝馬町の文珠屋という看板を掲げたわが家へ、帰り着いた佐吉は、その鬼瓦のような顔を、皮肉な笑いに引きつらせていた。
部屋部屋の女中の役目から、台所の板場、水仕事まで、おんなというものを一人も置かずに、何からなにまで男の手でやっている、一風変った宿屋である。
「いま戻ったぞ。」
文珠屋佐吉は、侍のような言葉づかいで、ずいと、その薄暗い土間へはいって行った。
時代で黒く光る帳場格子の中で、なにか帳合いをしていたらしい番頭の与助が、そろばんをそのままに、筆を耳に挾んで飛び出して来た。
「これは旦那、お帰んなさいまし――あの、由さんは。」
「うむ。由公か。ちょっと用達しがあってな、ほかへ廻った。」
言いながら、裾をはたいて上った佐吉は、大股に帳場を通り抜けて、二枚暖簾をうるさそうに頭で押し分け、奥の居間へはいっていく。
無言である。いつも口の重い文珠屋佐吉なのだが、きょうは何か心配ごとでもあるらしい顔つきなので、長く店にいて主人の気質も、何もかも知りぬいている与助は、おずおずあとにつづいて、
「何かございましたので――お出先にでも。」
「あったとも、大ありだ。」
佐吉は、どしんと縁側を踏んで、白壁の土蔵につづいた六畳の茶の間へ。
茶の間とは言っても、女房はおろか、家じゅうに女中ひとりいないのだから、茶の間らしい寛《くつろ》いだ、意気な空気はすこしもなく、茶だんすに長火鉢、それも秋口なので、火は入れてない。それだけ。
いたって殺風景なこしらえ。
すぐ眼の前が中庭で、まがりくねった赤松が一本、落ちかけた陽に、うすい影を畳に這わせている。
文珠屋佐吉は、長火鉢のまえの座蒲団へ、どっかりと坐り、
「弱気になった――。」
と出しぬけに言って、与助の顔を見て笑った。
「商売のほうは、どうかな与助どん。」
が、それよりも与助は、今の佐吉のことばが気になる態《てい》で、
「弱気になったとおっしゃって、何か――。」
「うん。おれの高札が立ったよ、煩悩小僧お尋ねの――あは、ははははは。」
旅籠屋の番頭というのは仮りの面で、剛腹無二、剣の鋭い与助は、あの由公とともに佐吉の左右の腕なのだ。
文珠屋佐吉こと、じつは煩悩小僧の口から、自分の高札が立ったと聞いた与助は苦笑しながら、
それでも、あたふたとあたりを見廻して低声になり、
「お声が高い! へへへへへ、そんなことを今さら気にかけるなんて、なるほど、これでみると親分も、よっぽど気が弱くおなんなすった。情ねえ。商売のほうは――とおっしゃるのは?」
「いや、高札などが押っ立って見ると、おいらも盗人は嫌になったよ。これからは、宿屋稼業に力を入れて、と思うのだが。」
「ふうむ、はあてね。」と与助は、ふかく腕を拱《こまね》いて、「そりゃあ親分、本心でござんすかえ。」
「うむ。まあ、本心と思ってもらいてえ。おいらも、本心と思いてえのだが――。」
「へへへへ、なあに、そう弱っ腰になった理由《わけ》は、じぶんの高札を見て浅ましい気におなんなすった――というんじゃあござんすめえ。一つ、この与助が卦《け》を置いて、図星を当ててみやしょうか。」
「それも面白かろう――。」
と、佐吉は、しきりに何かほかのことを考えている顔で、
「じゃあ、おいらは別に思惑《おもわく》があって、この煩悩小僧が嫌になったとでも言うのかえ。」
「女でがしょう、親分。」
与助は、ずかりと言って、膝を進めた。
「おんなだよ。親分。隠しなさんな。何もきょう始まったこっちゃあねえ。山から帰ってから、親分は夜の稼ぎに身が入らずに、昼も、まるで腑が抜けたように考えこんでばっかり、青息吐息――十八島田の恋わずらいじゃアあるめえし、人は知らねえが、ぼんのう小僧ともあろうものが見ていて、あっしゃあ小じれってえよ親分。」
江戸の巻――奇術駕籠《てじなかご》――
お山土産
「面目ねえ。女だ。が、笑ってくれるな。」と文珠屋佐吉は、自分で笑って、
「この面《つら》だから、この年齢になるまで、おんなに惚れたの腫《は》れたのってえことアなかったが――それに、おれア金がほしいの一天張りで、文珠屋てえ宿屋ア世間ていの装り、裏へ廻りゃア商売往来の陰を往く夜盗を稼ぎ、それで金を溜めて来たが、なあ与助、世の中あ佐渡の土だけでもなさそうだぜ。」
まったく――かれ文珠屋佐吉こそは。
いま江戸を騒がせている煩悩夜盗なので――と言うのも、祖父江出羽守への復讐を誓って、その資金の係りを笹くじで引き当て、金の煩悩を追って三国ヶ嶽を下山した江上佐助ではあったが、裸か一貫の青年を、どこへ行ったところで金のほうで相手にしようはずはないのだった。
江戸へ出て無職の日を送り、飢餓に迫った佐助は、とうていこの分では富豪になれないどころか、乞食《ものごい》をしても活《い》きて行けないかもしれないと覚って、と言って、黄金に対する火のような煩悩は断ち切れない。七年後の山上の会合に、相当の成績をもって二人に見《まみ》えるためには――と、ここで性来《うまれつき》人なみ外れて身が軽く、それに山奥育ちで木登りは十八番《おはこ》、足も滅法早いところから、さっそく盗賊に早変り、そのぬすんだ金の一部を資本に、この文珠屋という宿屋の出物を買って世間の眼をくらまし、押し入った先々にいたずら半分社会への意趣晴らしのこころも罩《こ》めて、かならずそこらへ書きのこしてくる。煩悩小僧の名を取って、今では。
由公、与助の二人を乾児に、店のほうもかなり繁昌しているし、もう一つの稼ぎもなかなか大きい。だがこの、顔が怖いだけで苦労人、結構人の文珠屋の主人が、あの評判のぼんのう小僧とは、このふたりのほか、店の使用人も誰も知らないので。
その与助と由公も、佐吉親分はただの泥棒と思っているだけ、どうしてこんな暗い道に踏み込んだかその真の目的《めあて》は何であるかそんなことは、佐吉もかつて打ちあけたことはなし、二人より何人にも察しようのないことだった。
女を置かず、客の用から拭き掃除まで、みんな男を雇って済ましているのは、女は眼はしがきいて口に締まりがないというので、この大秘密を保たんがためではあったが、それよりも、佐吉が大の女嫌いという建前。
じつに、おしろいのにおいを嗅ぐと、三日飯がまずい――というところから、下男ばかり何人も置いているのだが、江戸というところは、何でも奇抜でさえあればいい、その風変りな点が当りを取って、老人客や、茶人めいたかわり者のあいだに、この伝馬町の文珠屋は、なかなか評判がよく、江戸へ出ればここときめている定連も、かなり尠くないのだった。
が、女を使わないというだけで、女客を断わるわけではない。事実、急ごしらえの出あい夫婦、つれ込みが、文珠屋の泊り客の過半なので、おんながいないだけに、うしろめたい女客には、かえって気が置けないのかもしれない。
その、世の中に金以外、女に用のないはずの文珠屋佐吉は、先日旅に出て帰宅《かえ》ってからというものは、めっきり味気ない顔つきで、ことに今日は、じぶんの高札を見てすっかり腐ってしまったと言う。
いつもは、そんな文珠屋ではないのであるが。
たとえ鼻の先へ百本千本の十手が飛んでこようとも、どっかり胡坐《あぐら》で吐月峯《はいふき》を叩いていようという親分。高札なんどせせら笑って、かえって面白がってこそ文珠屋なのに。
ほかに理由《わけ》があると睨んだ与助の推測どおり、心に思っている女があって、善良《まとも》な生活が恋しくなったと言う告白だ。二十七の物思い――鬼瓦の文珠屋が恋風を引き込んだ。
山だろう――このあいだの山の旅で、何か知らねえが、おんなを見初《みそ》めて来たのだ、と与助、おかしいが笑いもならず、それにしても、いったい何しに山などへ? と胸の隅で不審《いぶか》りながら、
「親分も焼きが廻った。女一匹で善心とやらに立ち返るようじゃあ、あっしもこころ細い。諦めやした。ようがす。あのほうの足アふっつり洗ってみっちりこの宿屋商売に身を入れよう。」
佐吉の性質を呑みこんでいるだけに、心得たやつで、考えている逆を言う。
そうあっさり賛成されてみると、佐吉は呆気ない顔つきで、だが、じぶんで言い出したことなので所在なさそうに、
「だからおれあ、稼業のぐあいはどうだと、訊いてるじゃあねえか。」
「へえ。まあ、どうやらどうやら、部屋あ塞がっていますがね――親分、一言伺いやすが、その、旅で、お見そめなすった女ってなあ、この江戸のものでがしょうな。」
佐吉がくすぐったそうに、
「当りめえよ。それがどうしたと言うんだ。」
「いえねえ、どこの娘――むすめだか女房だか知らねえが、どこの何ものてえことは、わかってるんでごわしょうね。」
「解ってるような、わかってねえような。」
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