「ぷふっ!」と与助は、笑いを手で受けるような恰好をして、
「大分御意に適《かな》ったようで。」
「茶化すもんじゃあねえ。おらあ真剣なんだ。おめえも、心から惚れる女に行き当たって見ねえ。おいらの今の気持ちのように、陽かげの世渡りゃア嫌になるし、とてもその女のことを、不真面目な口で話すこたあできなくならあ。おれの胸がおめえにゃアわからねえんだ。」
「そういうものでございますかね。あっしゃアまだ、とんとそのほうの運が向いてこねえから、ふっふふ――ところで親分そんなに気に入った女なら、引っ担いでくりゃあ世話あねえじゃごわせんか。」
「馬鹿あ言え。菩薩のような、もってえねえお方様だ。拝んだら、眼がつぶれるほど美しいや。それに、ちいと奇妙な引っかかりもあってな。」
「おやおや、もう、お惚気《のろけ》ですかい親分、ははははは――そりゃあそうと、さっきね変てこな武士が一人、宿を取りやしたよ、女を伴れてね。」
 佐吉は、異様に眼を光らせて、
「へんな武士が女をつれて?」
「へえ。二階の『梅』へ通して置きやしたが、男も女も手ぶらでね――大方、今夜だけの泊りでげしょう。」
「二人連れか。どんなやつら――。」
 そう佐吉が訊きかけたとたんに、おもてから一目散、毬のように駈けこんで来た由公が、中庭の縁にぺたりとすわって、騒々しい大声。――
「親分! 合わす顔がねえ。まかれた。み、見事にまかれた――。」
「えっ! あの白頭巾と娘を見失ったと――?」
 鋭く叫んで、佐吉は、突っ起っていた。

     階上階下

 大伝馬町の名物、女禁制の男宿文珠屋の階下、中庭に面した奥座敷で。
 主人の口をきく鬼瓦――煩悩小僧の文珠屋佐吉が、番頭とは表向き、夜盗のほうの片腕与助を相手に山で引き込んで来た恋風を告白して、
「そこへ、今日、日本橋の袂《たもと》で、おれの高札が建っているのを見て来た。それで、じぶんと自分がつくづく浅間しくなり、もうこれで、この陽かげの世渡りとはふっつり手を切るつもりだ。ついては、これからはこの宿屋稼業へ身を入れる気だが、今日など、泊り客の具合いは何《ど》んなものだ。」
 そう言って訊くので、与助はくすぐったそうな顔、
「へえ、何ですか、先刻ね、変てこな侍が一人、女を伴れて宿を取りやしたよ。裏二階の『梅』へ通して置きやしたが――。」
「二人連れか。うむ、何んなやつらだ。」
「大方今夜だけの泊りでげしょうが、男も女も手ぶらでね、荷物ひとつ無えんです。それに、武士は頭巾を――。」
 与助がそこまで言いかけた刹那、あの、日本橋詰の高札場から、千浪と白覆面の後を尾けて行った由公――承知の由公が、礫《つぶて》みたいに走り込んで来たかと思うと、そこの縁さきにぺしゃんと尻餅、馬鹿っ声を張り揚げたものだ。
「お! 親分! あ、会わす顔がねえ。晦《ま》かれた。見事にまかれた――。」
「げっ! あの白頭巾と娘を見失ったと?」
 からり! 長煙管を抛り出して起ち上った佐吉、
「そうか。仕方がねえ。」
 それだけ言うと、静かに背後へ手を伸ばして、茶箪笥の横に立てかけてあった脇差を取った。
「大次は、下谷の道場にいるとかいう噂だ。道場へ報せてやらざあなるめえ。下谷の練塀小路だ。由来い。」
 いきなり歩き出そうとするから、由公はあわてて、
「ちょっと、親分、待っておくんなさい。」
「親分たあなんでえ。野中の一軒家じゃあねえや。お客様の聞えもあらあ。旦那と言いねえ。」
「へえ、旦那――じつは、十軒店から本銀町まであ、ちゃんとうしろから白眼《にら》んで行きましたんで。それが、あそこの角へかかりますと、ふっと消えちめえやがった。いや、あっしは面喰ったの、面くらわねえのって、すぐ横町へ飛び込んで、あの、時の鐘の下あたりをぐるぐる廻って捜しやしたが――。」
 佐吉は、苦笑して、
「こりゃあ承知の由公にゃあ、ちっと荷が勝ち過ぎたようだ。そりゃあお前、甲賀流の霞跳《かすみと》びと言って、山あるき野歩きに、草一本ありゃア不意っと姿を消すといわれている妙法だあな。」
「あれっ! するてえと、あの武士はとんでもねえ化物なので。」
「馬鹿野郎、化物なりゃこそ手前に後を尾けさせたんじゃねえか。」
「どうも何とも申しわけがござんせん。」
 しきりに、頭を掻いている由公を、佐吉はじろりと見下ろして、ずかり! 縁側へ踏み出した。
「はははは。承知の由公も、あんまり承知たあ言えねえな。今から承知の綽名を取り上げることにしよう。さ、ついて来い。」
 話の筋道を知らない与助は、何とも口の出しようがないので黙っていたが、この時、出て行く佐吉の背後から声を掛けて、
「親分、どちらへいらっしゃるんで。」
「うん、ちょっと訳があってな。下谷の練塀小路の法外流の道場まで往って来る。由公を伴れて行くから、お前は留守をしてくれ。」
 そして、ぶらりと文珠屋を立ち出でて行った。
 もしこの時佐吉が、さっき宿を取ったという女伴れの奇態な武士のことを、いっそう詳しく与助に訊くか、また与助のほうから、この武士のことをもうすこしよく話しでもしたら、彼はこうして下谷へ出向かずに、この事件だけは、ここで手っ取り早く結末がついたであろうに――。
 勢い込んで出かけて行った佐吉と由公を見送った与助は上り口に立ったまま、じっと両手を組んで、梯子段の上へ耳をすました。
 と、いうのは。
 この時、二階の裏座敷、「梅」と名づけられた一室では――。
「うむ、よく来てくれた。いや、下谷の道場を出てから、拙者はずっとここに身を潜ませておったのです。どうだな? 珍しいところであろうがな。」
 出羽守はそう言って、弥四郎頭巾の間から、白い眼を光らせて千浪を見遣った。

     はぐれ鳥

 この文珠屋では、上等の客間なのであろう。八畳の座敷に三畳ほどの控えの間がついて、床には何か軸が掛かっている。
 その前に大胡坐をかいた祖父江出羽守は、前に坐っている千浪へ、ちらちらと視線を送りながら、上機嫌だった。
 秋に入って、照り続いた空模様は、どうやら今夜あたりから怪しいらしく、重い空気が暗い風となって吹き込んで来る。何か物売りの声が町を流して、この、日暮れ近い伝馬町は、江戸の代表のように、あわただしいのだった。
 着衣から頭巾、それに着物の紋まで、何から何まで寸分違わぬ伴大次郎と祖父江出羽守と――まだこの祖父江出羽守を、良人大次郎とばかり思い込んでいる千浪は、
「でも、ほんとに、よくあそこでお眼にかかれました。あなた様が道場をお出になってからというものは、私は毎日のように家を空けて、お姿を慕って、江戸の町々をお探し申しておりました。今日こうしてお目にかかることのできましたのも父と、それから女髪兼安《にょはつかねやす》の引き合わせではないかと存じます。」
 出羽は、頭巾のなかから不審気に、
「女髪何と仰せられたな? 何でござる、その、女髪云々というのは。」
「あれ!」と千浪はびっくりして、「あなた様は、あの女髪兼安のことをお忘れになったのでございますか。」
 と、出羽が腰から抜いて、背後へ置いた佩刀のほうへ首をさし伸べた。
 まごついた出羽が、
「おおそうであったな。うむ、この刀のこと、さよう、さよう。」
 大声に笑うと、かれ出羽ふっと話題を変えて、
「久し振りだのう。うう――何と言われたかな?」
「何とと申しまして。何がでございます。」
「そなたの名だ。」
「あっ!」
 と、叫んで、千浪が逃げるように、思わず背後へ反った拍子に、ぬっと伸びて来た出羽の手が、彼女の手首へかかった。
「名なぞ何でもよい。山でそちを見かけた時分から――。」
 はっと千浪は思い出して阿弥陀沢の猿の湯で、父法外を手にかけた後、自分を捕えて、あの山腹の花畑まで伴れて逃げた白覆面の武士!
 あの人であったのか?
 なんという不覚! と、彼女が飛び退こうとすると、出羽は片手で、ぐっと千浪を手許へ引き寄せながら、片手を弥四郎頭巾の裾へ掛けて、
「そちの慕うておる良人の顔を見せてやろうか。」
 言いながら、さっと手早く頭巾を上げて、すぐに下ろした。初めて出羽守の顔をちらと見た千浪――そこに何を見たのか。
「あ、お許しなされて!」
 叫ぶように言うなり、早くも彼女は、高い所から暗黒の中へ墜落して行くような気がして、もう、気を失いかけたのだった。
 ちょうどこの時刻。
 日本橋を神田のほうへ渡って、魚市場へ曲がろうとする角のところに、やくざ浪人とも見ゆる一団の武士達が、わいわい言いながら、あちこち見廻わして集まっていた。さっきそこまで一緒に来た主人を見失った山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、出羽守側近の面々である。
 通りがかりの群集のなかへ、それぞれ眼を走らせながら、北伝八郎が、
「さっき、あの高札場のところまでは、先に立って歩いておられたのだが――。」
 川島与七郎は、故法外先生に斬られた手はすっかり癒ったものの、両手の指が十本全部ないので、何があっても刀を抜くこともできない身体である。いつも懐手をして、傍観の役目なのだが、今も、両手を深く懐中へ押し込んだまま、
「しかし、人目につかれる服装《なり》をしておられるのだから、見失うというはずはない。またわれわれが主君のお供をしておって、はぐれたとあっては申しわけが立たぬ。」
「じつにどうも不思議だ。一同の前に立って、高札の前の人混みの中へはいって行かれるところまでは、たしかに拙者も見ておったが――。」
「うむ。この先が判然せんのだ。いつの間にか、ふっと姿を消されて――。」
 そう誰かが言いかけた時、きょろきょろあたりを見廻わしていた中之郷東馬が、頓狂な大声で叫んだ。
「おお! あそこへ行く? あそこへ行かれるじゃないか。」

     身代り殿様

「あ! お人の悪い。あちこちお探し申しました。」
 という声に、白絹の紋付に弥四郎頭巾をすっぽりと被り、女髪兼安を帯した伴大次郎は、ゆっくりと振り返った。
 日本橋を神田から来て、京橋のほうへ渡ろうとする橋の袂だった。
 振り向いた大次郎の前に、お花畑の斬り合いで覚えのある顔、顔、顔――北伝八郎、中之郷東馬、山路主計らが、五、六人ずらりと並んでいる。
 どきんとした大次郎だったが、すぐ自分の顔は、覆面に隠れていて見えないのに気がつくと同時に、相手方は、誰かと取り違えているらしいので、安心した大次、思わずはっと腰を落した構えをゆるめて、
「おお、一同か。」
 と、含み声で答えた。
「一同かじゃアありませんぜ、殿様。そこまで来ると、お姿を見失ったので、いま皆で大騒ぎをしていたところです。」
 自分を、あの主人の、もう一人の弥四郎頭巾と間違えているのだと気がつくと、大次郎は、頭巾のなかでにっと微笑みながら、なおも声をつくることを忘れなかった。
「うむ。一と足先にそこらまで行ったのだが、誰も付いて来ておらんのに気がついたから、引っ返して来た。どうだな。これで揃っておるかな?」
 と、彼は、真深に隠れた頭巾の下の眼で、連中を見まわす。
 中で山路主計が、一歩進むように、
「それでは、今日、下谷へお出かけになるのは、お取り止めになったんで。」
「下谷へ?」
 思わず大次郎は、訊き返す。主計はじめ一同は、不思議そうに、
「お忘れでございますか。あの娘と若造は、下谷練塀小路の法外流道場にいるとかとのことで、殿様は今日そちらへいらっしゃるというので、こうしてわれわれ一同出かけて来たのではございませんか。」
「うん、そうであったな。」
 と、言いながら大次郎は、法外先生の仇のこの連中に逢ったのを幸い、また、彼らが自分をその首領の白頭巾と思い込んでいるのをいいことにして、しばらく身代りになり澄まし、彼らの欲するとおりに動いて、その内状をさぐって見るのも興あること――なによりの好機会、そう思うと同時に、
「うむ。これからすぐまいろう。」
 と、先に立って今来たほうへ引っ返し、下谷を指して急ぎはじめた。
 と、この時――である。
 別の道をとって、
 やはり下谷を指して急いでいる二人伴れがあった。
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