それはあの、女たらし恋慕流しの名に隠れて、十手を預っている深川やぐら下の岡っ引宗七と、八丁堀の与力、川俣伊予之進の二人だった。
 大次郎の姉小信を、思いがけなく自宅に引き取った宗七は、折から来かかった川俣と伴れ立って、その小信の弟伴大次郎のいるはずの下谷の道場へ、小信のことを知らせようと、出かけて来たのである。
「いえ、あの、気の違った女の知り合いが、下谷のほうの道場にいるので、それが、ひょんなことからあっしの知り人でござんしてね。あの気狂い女を自宅へ引き取っていることを知らせてやろうというだけのことなんで。」
 たしか、川俣伊予之進には、何も話してないのだ。が、
「例の煩悩小僧のほうにも、案外何か引っ掛りがあるかもしれませんから、旦那も、お出でなすったらいかがです。」
 という宗七の言葉を頼りに、川俣は、それ以上何も訊かないことにして、一緒に出て来たわけ。
 しかし、話はまた煩悩小僧のことに落ちて行って、
「なあ、櫓下、何とかしてそちの手で、この煩悩小僧をお繩にしたいものだ。日本橋には高札が建ったが、いや、もう、江戸中えらい評判で、今この怪盗をお手当てにした者は、一躍名を挙げるというものだ。」
「まあ、旦那、そうなにも焦《あせ》ることはござんせん。あっしもこれで、まんざら当てのねえ動き方はしてねえつもりで。」
「うむ、たのもしい一言だな。」
「と、まあ、そうお思いになって、ここしばらく、宗七めに付き合っておくんなせえ。」
 話しながら歩く道は早い。もういつの間にか、下谷は練塀小路、法外流道場のそばまで来ている。

     三すくみ

 泉刑部というのが、留守の道場を預かって、師範代だった。
 ちょうど一稽古終ったところで、面を外した頭から、湯上りのように湯気を上げた若侍たちが、板敷の片隅に立ったり、坐ったり、ある者は小手の縛り糸を締めたりなどしながら、
「伴の若先生は、いったいどうしたのであろうな。」
「道場を出られてから、これで随分になるが、とんと音沙汰を聞かん。」
「いや、それよりも奥様の千浪さまだ。毎日のように大次郎先生を探されて、あちこち出歩いておられるようだが、なんともお気の毒の至りだ。」
「千浪さまに、あんなに慕われる大次郎先生を思うと、人ごとながら、冥加に尽きるような気がするなあ。」
「しかし、おれはいつも不思議に思うのだが、顔があんなに変ったとて、心まで一変するものであろうか。」
「そういうこともあるであろう。なにしろ、この自分というものが、すっかり変ったような気がするに相違ないだろうからな。」
「恐ろしいことだ。」
 わいわい話し合っているところへ、遠く玄関のほうに当って、人の訪れる声がする。
 立って行った弟子の一人が、すぐ引っ返して来たかと思うと、背後に、荒い滝縞の重ねに一本ぶっ差して、ぞっとするほど恐ろしい大柄な顔をした男と、鼠のような小さな男とが、そのまま案内役にくっ付いて、どんどん道場まではいり込んで来ていた。
 見咎めた泉刑部が、立って来て、
「何だその方たちは何だ。何故取り次ぎを待たずに――。」
「伴大次郎さんにお目にかかりてえのですが。」
「大次郎先生は、もはやここにはおられぬ。」
「そんならあんた方に申し上げてもよいが、こちらのお嬢さんが、誰とも知れねえ白覆面にかどわかされて――。」
 承知の由公も、そばから口を入れて、
「へえ、あっしが後を尾けたんですが、本銀町の角で、ふっと横町へ外れたなり――。」
 そう言っている時である。道場の入口にいた弟子たちが、驚きの大声を揚げたかと思うと、大次郎――とはしれない、弥四郎頭巾の武士を先頭に、中之郷東馬、北伝八郎、山路主計、川島与七郎等の一行が、どしどし踏み込んで来た。
「や! 何者?」
 と、叫んだ泉刑部らの前に、北伝八郎が大声をぶつけて、
「祖父江出羽守の御微行《おしのび》だ。父とともに三国ヶ嶽の下の猿の湯へ行っておった娘は、どうした? どこにおる?」
 この、祖父江出羽守という言葉は、雷のように伴大次郎と、文珠屋佐吉の耳を打ったのだった。
 大次郎は、はいって来るとすぐ、文珠屋佐吉の顔に気がついて、先日、あの山腹のお花畠のわき道で、千浪を中に逢った時は、葛籠笠《つづらがさ》に隠れて相手の顔は見えず――今七年振りに初めて見る江上佐助である。どうして彼がここに? と思う間もなく、今背後から伝八郎が、祖父江出羽守の一行だと呼ばわった声に、彼は、はっと胸を衝かれていた。
 祖父江出羽守? すると、あの、自分と同じ弥四郎頭巾は――。
 これより早く、文珠屋佐吉は、腰の脇差を抜いていた。
「待て!」
 大次郎が呼ばわったが、それはすでに遅かった。先に来た文珠屋佐吉主従を、この続いて後に来た武士の一団の先ぶれと思ったらしい泉刑部は、すぐ竹刀を真剣に代えて、青眼に構えていた。山路主計、伝八郎、東馬らに促されるように、大次郎も、一同とともに女髪兼安の鞘を払わざるを得なかったので。
 竹刀より知らぬ道場に、時ならぬ白刃の林が立ってこの一瞬間の無気味な静寂の後に来る乱闘の場面を思わせた瞬間、三度、廊下につづく道場の入口に人影が立って、
「御用っ!――と、まず、こう一つ脅かしておきやしょうかな。」
 声がした。やぐら下宗七と、川俣伊予之進である。御用! の声にぎょっとして振り向いた煩悩小僧の文珠屋佐吉と宗七、はったと眼が合って――。
 三つの煩悩を負う三人、計らずもここに落ち合った。

     空追い機転

 三つの煩悩を負う三人、はからずもここに落ち合った。
 七年前の七月七日に、笹くじを引いて三方に下山した伴大次郎、江上佐助、有森利七の田万里の三羽烏が、七年後のこの七月七日には、約束の三国ヶ嶽で大次郎と利七の恋慕流し宗七とが、顔を合わしたので――。
 煩悩小僧の文珠屋佐吉が、子分の承知の由公を連れて来たすぐその後から、出羽守に化けた大次郎とやくざ侍の一行、それをまた追っかけるように、
「御用っ――!」
 とばかりに飛び込んで来たのが櫓下の宗七と、川俣伊予之進の二人。
 何が何やら解らない気持――三すくみ。
 文珠屋佐吉は、この法外流道場を預っている師範代、泉刑部に、自分は、この家の千浪が為体の知れぬ白覆面の武士に伴われて行くのを見かけて、この承知の由公に後を尾けさせたが、うまく晦《ま》かれてしまったと話しているところへ、どやどやと踏み込んで来た荒らくれ武士がどなったには、祖父江出羽守がおしのびで、父と共に三国ヶ嶽の猿の湯へ行っていた娘はどうしたという。
 誰かは知らぬが、故法外先生の仇の、あの白覆面に化けすましたとだけ思っていた伴大次郎も、そこに居合わせた文珠屋佐吉も、この、
「祖父江出羽守の――。」
 と言った声に、ぎょっと声を呑んだ瞬間、そこへ櫓下宗七と与力の川俣が飛び込んで来たのだ。
「さては、きゃつめ、祖父江出羽守であったか。」
 と、大次も思わずびっくりすれば、あの、三国ヶ嶽のお花畑以来、妙に因縁のある弥四郎頭巾が、七年この方眼ざして来た出羽だったのかと、佐吉も胆をつぶすと同時に、見れば面前に、その白覆面白服の祖父江出羽守が突っ立っているので――それを大次郎とは知らぬ文珠屋佐吉、
「やいっ! うぬあ出羽だなっ!」
 と佐吉は、いきなり抜いて切りかかったが、道場の一同にとっては、いずれも同じ為体の知れぬ敵なので、皆一様に鞘を払った刹那、ずいと通って来た宗七は、
「おお、文珠屋。」
 と佐吉に声を掛けたので、見向いた佐吉、
「や、お主は有森利七。」
「げっ! いんや、今じゃあ十手を預る宗七だ。」
「おう、恋慕流しの宗七。」
 大次郎が、頭巾のなかからそう言った。二人からは彼は見えないが、大次からは佐吉も宗七も、そのまま眼に入るので。
 じりじりしていた中之郷東馬が、二、三歩前へ踏み出すと同時に、北伝八郎が、突如、文珠屋佐吉に斬りつける。醜面の佐吉、その顔を歪めて、さっと横に払うと同秒、師範代の泉刑部は、大次郎とも知らず、その白覆面に向って青眼に構えて誰を誰とも知れない乱刃の光景。
 止むを得ず大次郎も、腰の女髪兼安に、暮れ近い薄日を映えさせて、時ならぬ剣林、怒罵《どば》、踏み切る跫音、気合いの声、相打つ銀蛇《ぎんだ》、呼吸と、燃える眼と――。
 あわてたのは承知の由公で、剣の下を木鼠のように走り廻り、
「親分、こうわけの解らねえ斬り合いも、めったにござんせんぜ。ここあ一つ早くどろん[#「どろん」に傍点]を決め込んだほうが、利巧のようで。さっきの甲賀流の霞飛びじゃあねえが、ふっと横へ消え込んで――。」
 職掌柄、川俣伊予之進は、この容易ならぬ乱闘に眼をぱちくりさせているものの、どれがどれだか解らないから、手の付けようがなくて、まごまごしていると、かねがね煩悩小僧と動かぬ白眼《にらみ》をつけている文珠屋佐吉を、宗七、ここで一声かけるかと思いのほか、そこは共に大志を抱く友達のよしみ。
「おい、江上、ここでこの出羽守を仕止めようとしても、それは無理だ。向うには大勢二本差しがくっ付いている。ここはひとまずずらかったほうが――。」
 と囁いたかと思うと、自分から先に立って、元来た入口のほうへ一目散!
「御用! おのれっ――!」
 と何もないのに、さも何者かを追いかけるよう、いっさんに道場を駈け出した。

     見越の松

 この、いきなり御用の声と一緒に、恋慕流しこと深川やぐら下の岡っ引宗七が、やにわに外へ向かって駈け出したので、まず川俣伊予之進が、何事かと後につづく。
 それを自分を逃がそうとの機智と知った佐吉、
「由公、来いっ!」
 と、承知のを促して、あとに続く。
 出羽とばかり思われて今までは顔を見せて弁解することもできなかった伴大次郎も彼と知らずに斬りかかって来る泉刑部はじめ、自分の弟子たちを疵つけないように斬り払ったのち、これ幸いと道場を後にした。残された山路主計、北伝八郎、中之郷東馬、それから指無しの川島与七郎の面々何やらさっぱり解らない顔で、
「勝負はお預けだ。いずれまた来る。」
 と、泉刑部等に一言投げ捨てておいて、
「それ、殿様に遅れるな。」
 と大次郎の後を踏んで、道場を飛び出したが、その時はもう、先に出た文珠屋主従をはじめ、宗七も伊予之進も、大次郎の影も、その下谷練塀小路の横町にはなくて、暮れに近い日脚が白っぽい道に弱々しい光りを投げていた。
 すぐそこの角は、名ある人のお囲い者の住居でもあるか、お約束の舟板塀に、冬の支度に藁を巻いた見越しの松が、往来に枝を拡げて、お妾の所在なさであろう、この夕暮を退屈そうに、今|流行《はやり》恋慕流しの一節が――。

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「君は五月雨
 思わせ振りや
 いとど焦るる
 身は浮き舟の
 浪に揺られて
 島磯千鳥――」
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「殿様は、どこへいらしった。」
「どうも今日は、よく姿をお隠しになる。」
「また晦《ま》かれたのか。まあ、仕様がねえ。ぶらぶら歩いて行くうちには――。」
「ひょいとまた、そこらの横町から顔をお出しなさるだろう。」
「しかし、それにしても、あの恐ろしい面をした町人は何ものだ。出羽守と聞いたら、血相を変えてむかって来たが――。」
「あの岡っ引らしいやつも、殿様のお名前を聞いたら顔色を変えおったが――。」
「何だかさっぱり合点のいかねえことばかりだ。」
 あははは、と笑い声を合わせた一行、大道狭しともと来たほうへ、ぶらりぶらりと歩き出したが――。
 それを送るかのように、また耳をくすぐる恋慕流しが漂って来て。

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「君は五月雨
 思わせ振りや
 いとど焦るる――」
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 この唄の洩れて来る、その妾宅の裏に、この時、ぴったり貼りついている二人は、道場を飛び出すと同時に、うまく川俣伊予之進をまいてしまった恋慕流しの宗七と、文珠屋佐吉で、
「おい、有森、しばらくだったなあ。お前は、先日三国ヶ嶽へ来なかったじゃないか。」
「七年目に山で会う以外は、往来で擦れ違っても、口をきかぬ約束だが、こうし
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