てなにやら復讐の機会の近づいて来たらしい気のする今日だから、そんなことも言っちゃあいられめえ。」
宗七はそう言って、膝を包み込むように、黒板塀の蔭にしゃがむ。
承知の由公は、佐吉に命じられて先に帰ったとでも見え、あたりにいない。宗七は続けて、
「何を言ってるんだ。おれは山へ行ったよ。行って伴大次郎にだけは会ったが、待っても、お前は来なかったじゃあねえか。」
「いや、おいらも行くには行ったのだが、途中でひょいと見たものがあって、堂のわきに手紙を残して引っ返えしたのだ。」
「その見たものというのは、何だい――うむ、それはそうと文珠屋、煩悩小僧の評判は、ちと高すぎるようだぜ。」
「えっ、うむ、するとお主は、このおれと――何にも言わねえ。さすがは。――眼が高けえや。だが、のう櫓下、金の煩悩になりきったおれだ。もう少し、大眼に見てくれよ、なあ。」
「そんなことは言わなくても解っている。出羽の首を挙げるまでは待つが――。」
眠り美人
「それまで待つ――?」
「うん、それまで待つ。」
「それで、その後は?」
「その後は――お前は煩悩小僧、おいらは因果《いんが》と岡っ引だ。察してくんねえ。」
「解った話だ。出羽さえ打ち取りゃあ、煩悩小僧は立派に、やぐら下の繩にかからあ。」
そう文珠屋佐吉が、暗い顔ながらも欣然として答えた時、そこの角を曲がって近づいて来る白衣の武士――伴大次郎なのだが、二人は祖父江出羽守と思いこんでいるので、思わず身を堅くして待ち構えると、静かに傍へ進んで来た大次郎は、
「おれだ。」
とひらり、と覆面を撥ね上げて、顔を見せた。
大次郎と解って、二人は喜ぶやら、驚くやらしたが、二度びっくりしたのは、その顔に昔日の美男の面影はなく、まるで熟《う》れ柿を潰して固まらしたような、物凄い刀痕。
三国ヶ嶽で、師匠法外先生を殺され、千浪を攫われようとして戦ったとき、受けた疵だという説明を聞いて、二人は暗い顔を見合わせると、大次郎は語をつないで、
「その弥四郎頭巾が、祖父江出羽守であったとは、今日はじめて聞いた。」
そう言えば先刻日本橋の高札場から、千浪を連れ去ったのは、あれは祖父江出羽守だったのかと、文珠屋佐吉の言葉におのが顔ゆえに表面千浪を捨てて家を出たものの、一刻も千浪の面影を忘れ得ずにいる大次郎は、顔色を変えて、
「うんそれはこうしてはおられぬ。一時も早く千浪様を探して――。」
と焦立ったが、
「それがどこへ行ったか解らねえのだ。」
と言う文珠屋の言葉。
また二階から聞えて来る恋慕流しの唄に、大次郎は頭巾のなかから、宗七へにっこりして、
「山で、お主のあの唄声を聞いたが七年後の三国ヶ嶽の会合から、こんな騒動になろうとは思わなかった。」
と今さらのように、腰の女髪兼安の柄を叩いて、三人ここで、再び、重なる恨みの煩悩鬼出羽に、堅い復讐を誓ったのだ。
と! 騒ぎにとりまぎれていた宗七、大次郎へ向かって、
「大次さん、驚いちゃいけやせん。姉さんの小信さんを、あっしの家にお世話しているのだが。」
「え、姉上を! それはどういう――。」
「それが、どうしたのか、さっぱり解らねえが――大次さん驚いちゃあいけねえ。小信さんは、少し気が狂っていなさるようだ。」
田万里《たまざと》にいたころから、文珠屋佐吉も、この伴大次郎、姉小信を知っているので。
「あの小信さんが――? すりゃ、出羽の許を逃げ出して。」
出羽守の側女《そばめ》に、押しこめ同様になっているはずの姉の所在が解ったと聞いて、喜んだのも束の間、気が狂っていると知って、大次郎の悲痛と落胆は大きかった。
が、気が狂っている以上、今すぐ訪ねて行ってもしようがあるまいと、小信の身は、宗七夫婦に依頼して一時安心することにした。
そして二、三日うちに、大次郎は必ずやぐら下の宗七夫婦の宅へ小信に会いに行くことにして、とにかくその日は、文珠屋佐吉と連れ立って、その伝馬町の旅館へ帰ることにした。なおも三人、相談と手筈を決めた後。
その、女気抜きの名物旅籠、文珠屋の階上「梅」の座敷では。
良人大次郎とばかり思い込んで、ここまで来たのが、顔を見せられて、あの恐ろしい父の仇敵白覆面と知った千浪は、そのまま哀れに気を失っている。
その、ちょっと覗かせて見せた祖父江出羽守の素顔に、何があるのか。それは本人の出羽守と、一眼見せられた千浪のほか、誰も知らないのだが――。
夕暮れ近い部屋である。
出羽守は、またすっぽりと覆面を下ろして、その、倒れている千浪の姿をまじまじと凝視めて、頭巾の中で隠れ笑いをしている様子だったが、やがて手を鳴らして、障子際に手を突いた番頭の与助へ、
「酒が所望じゃ。」
と命じた。
この、気絶している千浪を眺めながら、それを肴に一杯やる気と見える。
「へい。畏りました。」
と答えた与助は、前から怪しいと睨んでいた二人連れなので、じっと倒れている千浪へ眼を返し、
「御新造さまは、どうかなさいましたので。」
「うむ、いや、なに、ちょっと眠っておるのだ。遠道をすると足弱はことのほか疲れると見えるのう。」
「いえ、もう、御婦人方はごもっとも、お床をとらせましょうか。」
「いや、それには及ばぬ。ほどなく覚めるであろうから。」
頭巾のなかからそう言っている出羽守を、敷居際でお辞儀をしながら与助は、素早くじろりと見て、
「それでは、ただ今御酒を――。」
と障子を閉めて、階下へ下りたのだったが――。
合言葉
梯子段を下りた与助は、そこの土間へぶらりとはいって来た主人の文珠屋佐吉を認めて、
「おう、親分。」
と声をかけたが、その佐吉の背後から、もう一人、あの二階にいる白覆面と同じ弥四郎頭巾、同じ白絹にさいころの紋付、同じような朱鞘を腰に、懐手ではいって来た侍を見ると――狐につままれたような顔の与助は、その侍と、二階のほうを見較べるようにして、
「親分! これはいったいどうしたというんで。」
「何がどうしたというんだ。客人をお連れした。もとおいらがお世話になったお侍様だ。御挨拶をしねえか。」
与助は眼をまんまるにして、
「冗談じゃありませんぜ、親分。これと同じお侍さんが、女を連れて二階の、『梅』にいらっしゃるんで。」
「げっ! なに? それではあの、もう一人の弥四郎頭巾が!」
と、佐吉は思わず、背後の大次郎を振り返りながら、与助へ、
「ひょんな侍が女を連れて泊り込んだと、さっきお前が言ったのはその客か?」
与助はまだ呆気にとられて、大次郎を凝視めて、頷くだけだ。
佐吉は先に立って上りながら、
「大次さん、来てるらしいぜ。」
「そうらしいな。斬《や》るかな。まず、千浪どのに怪我のないように。」
この、親友の妻と知りながら、千浪に対する恋心を制し切れない佐吉は、つと、暗い顔になりながらも、
「そうだ。その千浪様とやらに、お怪我があっちゃあならねえ。だが、出羽はこれを幸い、首にしてえものだな。」
「言うまでもない。それは拙者が引き受けるから、お主は千浪を頼む。」
何の話か解らないので、そばでまごまごしている番頭の与助を、振り返った佐吉、
「すこし二階でどたんばたんするかもしれねえ。お前は誰が下りて来ても、ここから一歩も出すんじゃねえぞ。いいか――由公は、どうした。」
「由公はまだ帰りませんが、御一緒じゃなかったんで。」
「先へ帰してやったんだが、どこかで引っかかって油を売ってるんだろう。――おう、大次郎さん、それじゃあひとつ二階へ乗り込みやしょうか。」
びっくりしている与助を残し、佐吉が先に立って大次郎を促し、梯子段を上がりかけたが、
「待てよ。」
と大次郎を顧みた佐吉、
「お前さんもあの出羽守もどこからどこまで寸分違わねえ服装《なり》をしているんだから、斬り合いになって動き廻られると、どっちがどっちともおいらにゃあ区別がつかなくなるに相違ない。はて、どうしたものかな。」
「合言葉を決めよう。」
大次郎の言葉に佐吉は頷いて、
「うん、そうだ。だが、その合言葉は何とする。」
「煩と呼んだら、悩と答える。どうかな?」
「煩悩か――よかろう、面白い。」
そして二人は、七年前の田万里の時代に返ったように、にっこり笑顔を見合わせたが、それも束の間で、二人はすぐ緊張した面持ちで、跫音を忍ばせて二階へ――。
階下に残った与助は、すぐ二、三の男衆を呼び集めて、
「今ちょっと二階で騒ぎが持ち上がるかもしれねえ、お前たちに関係《かかわり》のあることじゃあねえから、があがあ音を上げて騒ぐんじゃあねえぞ。だが、他のお客さんに、お怪我があっちゃ申訳ねえから、そこんところはよく気をつけてくれ――おお定、お前は裏口を閉めて来い。構うことはねえから縁側の雨戸を立ててしまいねえ。表の大戸を下ろしちゃあ世間様が何かと思うから、まあここだけは開けておくとして、手前たちみんなここにいて、泊りの客が来たら、ちょっと取り込みがござんすからと言って断るんだ。」
男ばかりの世帯だから、こういう時は締めくくりがつきやすい。喧嘩だと聞いて、文珠屋の下男一同心張棒を持ち出す者、捻り鉢巻をする者、すっかり面白がって、わいわい言う騒ぎ――。
いずれを何れ二つ巴
長い廊下に部屋べやの障子がすっかり閉まって、しんとした静けさ――。
大次郎の先に立った文珠屋佐吉は、その廊下を進み、ぴたと足を停めたが、「梅」という部屋の前。
「ここだ。」
と言う目くばせを大次郎へ送ると、障子のなかでは祖父江出羽守、室外で跫音が停まった様子に、早くもそっと背後の床の間の大刀へそれとなく手を伸ばしながら、
「誰か。」
「――――」
「番頭か、酒を持ってまいったのか。」
「へえ、さようで。」佐吉が答える。「お酒を持ってまいりましたんで。」
「うむ、待っていたぞ。」
さっと両方から、佐吉と大次郎が二枚の障子に手を掛けて左右へ開く。
床柱を背に、胡坐をかいた出羽と、縁に立った大次郎と佐吉と、六つの眼がぴたと合った。
気を失った千浪は、美しい人形のように座敷の隅に俯伏したまま動かない。この酔美人を肴に一献傾けようとしていた出羽守は、思いきや自分と同じ服装《つくり》の白の弥四郎頭巾が、ぬっくとそこに立ちはだかっているので、大刀を膝に引き寄せるが早いか、じりっと膝の向《むき》を大次郎の方へ寄せて、声は、冷たい笑いを含んでいた。
「何じゃ、その装《よそお》いは、わしの真似をして茶番でもしようというのか。」
「そちこそ何者じゃ。」
大次郎はそう鋭く呼びかけながら、ずかりと部屋へはいって来た。そして、腰の女髪兼安の柄に手を掛けながら、頭巾のなかの眼を怒らせて、出羽守を睨み下ろした。
「お前はいったい何者だ。何のために余と同じ服装をして、こうして江戸の町を彷徨しておるのか。余が誰であるか、そちは存じておるのか。」
この大次郎の言葉に、祖父江出羽守は度胆を抜かれて、
「な、な、何だと? 貴様こそおれの真似をして――。」
「黙れっ!」
大次郎が叫んでいた。
「余は祖父江出羽守であるぞ。……遠州相良の城主、この祖父江出羽守と同一の服装をいたすとは、怪しからん奴――。」
そばに立っている文珠屋佐吉が、にやにやして両方を見較べたが、大次、なかなかうまいことを言うと思いながら、しかし心中には、一脈の疑惑を持ったので、こっちこそ本当の出羽守で、千浪を連れて泊り込んでいるほうが、伴大次郎なのかもしれないと、先刻大次の顔を見て、一緒に連れだってここへ来たのだから、万々そんなことはないけれど、だが、こうして見ると、まったくどっちがどっちともわからないのだ。佐吉としてはとっさに、こんな疑問が湧こうというもの。
驚いたのは出羽守である。
「ややっ! 余の名を騙《かた》るとは、不屈千万なやつ。余こそ遠州相良の祖父江出羽であるぞ。」
叫ぶより早く大刀片手に、すっと起ち上がっていたが、これだけ聞けばもう用はない。この出羽守の口から、一度名乗らせようとの魂胆だったのだから。
「うむ!」
と頭巾のなかで
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