笑った大次、
「とうとう正体を明かしおったな。出羽守殿、覚えがござろう。拙者とこれなるこの家の主は、御貴殿のために亡ぼされた田万里の郷士でござる。七年以来、貴殿の煩悩に報ゆるに煩悩をもってせんと、江戸に潜んで、この機会を待ちもうけておったもの。また先般三国ヶ嶽の猿の湯で、殿の刃に倒れた弓削法外先生の仇でもある。――拙者は、この千浪の夫の伴大次郎です。」
そう言いながら大次郎が、部屋の一隅の千浪の姿に眼をやると、出羽守もそれへ、素早い視線を投げて、
「なかなかこみ入っておるのだな。田万里の伴といえば、小信の弟――。」
「そうです。あなたに奪われた小信の弟ですが――今日聞くところによると、その姉は、気が狂って、お屋敷を出ておるとのこと――。」
遠州の巻――奇術駕籠《てじなかご》の二――
花の人質
「おい、大次、殿様を相手に何か言ってもしようがねえ。早くお命を貰ってしまおうではないか。」
佐吉がそばから、やきもきして急き立てると、
「命を貰う? うふふふ、おれの命が欲しいというのか。欲しけりゃあくれてもやるが、だが、ちょっと待て。」
と出羽守は、弥四郎頭巾の顔を佐吉から大次郎へ移して、
「小信が発狂しておるというのは初耳だぞ。あれは邸を飛び出して、その後とんと消息を聞かんのだが。」
「姉のことは姉のこととして、もはや問答無益でござる。出羽守殿、覚悟っ!」
おめくより早く大次郎、腰間の女髪兼安に、一反り打たせたかと思うと、腰を落して流し出した白刃一閃、阿波の国の住人、右近三郎兼安の鍛えるところの弓削家伝来の名剣である。煩悩の姿をそのままに、女の髪の毛が一筋、刀の面に張りついたと見えるような一本の線が、鏡のような刃に嫋々《なよなよ》とまつわりついている――人呼んで女髪兼安、抜けば必ず暴風雨《あらし》を呼び、血の池を掘ると伝えられている女髪兼安だ。
と見る!
出羽守は、素早く部屋の一隅へ飛びすさったかと思うと、これも鞘を払って三尺の秋水《しゅうすい》を、青眼にも大上段にも構えるどころか、いきなり、その足許に意識を失って倒れ伏している、大きな花のような千浪の咽喉首へ、ぎらり、その斬尖《きっさき》を刺し当てて、千浪の上に跨がったまま、大次郎へ笑いかけた。
「どうじゃな。そちの刀が一寸こっちへ伸びて来れば、この斬尖《きっさき》が一寸女の首へ近づく。そちが一尺寄って来れば、この刀は女の首を芋刺しに畳を突き通すのだ。わっはっは、わっはっは。」
三国ヶ嶽の麓に住む、年古りた猿のような笑い声が、その出羽守の頭巾を洩れ、白衣に包まれた肩が、怪しい笑いに大きく揺れる。
はっ! と刀を持つ手を宙に凍らせた大次郎は、思わず一歩退って、
「ううむ! おい、文珠屋、悪いところを押さえられてしまったな。」
これも脇差を抜いて、そばに構えていた文珠屋佐吉、
「これはちと困った。手の出しようがねえ。」
その間も出羽守の笑いは、高々と響いて、
「そちがおれを斬ると同時に、おれはこの女を刺し殺す。この女とおれと、二つの死骸が重なれば美男美女の心中というものじゃ、ははははは、どうした。かかって来ぬか。」
ひっそりとした室内に、三人の荒い息づかいが聞えるだけで、千浪は何事も知らずに、うつらうつらと夢心地でいるらしく、肩のあたりが、優しい呼吸に動いているだけで――。
このままではいつまで経っても睨み合いが続くだけで、どう結末がつこうとも見えなかった。
出羽守は、立ちはだかったまま、その千浪の寝姿の上に跨がり、真珠のような美しい首に、刀の斬尖を一、二寸上に止めて、頭巾のなかの眼を上眼づかい、じっと大次郎と佐吉へ視線を凝らしているので。
「どうじゃな、刀を引いたほうが利口らしいの。」
そう出羽守が、口を歪めて言った時だった。
不思議なことが起ったのである。
夕方に近いとは言え、暖かい小春日和で、今日も日本橋の袂など、ああして人が出盛ったくらい、冬にしては暖かな強い日光が、まだ戸外にきらめいているのだ。
ことに西陽を受けて、この伝馬町あたりは、かっと瓦が燃え立つような茜色《あかねいろ》の空。
縁の障子が開けられ、すぐ外は中庭を隔てて、向うの部屋になっているのだが――。
この瞬間である。
千浪の上から首に刀を擬していた祖父江出羽守が、あっと小さく叫んだと思うと、片手を頭巾の眼へやって、いかにもまぶしそう。刀を片手に、一瞬間、ちょっとその緊張した姿勢が乱れた。
背を伸ばして、自然、刀の斬尖は千浪の咽喉首から、一尺も上へ上がったのだ。
この不意の出来ごとに、虚を衝くことも忘れて、大次郎と佐吉は、驚きの眼を合わせて立っている。
眼つぶし鏡
一条の光線が、その出羽守の眼を射たので。というのは、ちょうどその中庭を隔てた向う側の二階の部屋から、障子を細目に開けた番頭の与助が、手鏡に陽をかざして、その照り返しを巧みに出羽守の眼へ当てたのだった。
たじろいで起ち上がった出羽の眼を追って、きらきらと丸い鏡の光が、壁を斜めに踊りながら、またもや出羽の眼を射抜く。
「あっ! まぶしくてかなわん。」
思わず独り言を洩らした出羽は、片腕を上げて眼を庇いながら、よろよろと二、三歩背後へ退った。
今だっ! と心に叫んだ文珠屋佐吉、いきなり走り寄ったかと思うと、その知覚を失っている千浪の身体を横抱きにかかえて、一目散に縁側へ駈け出すが早いか、廊下伝いに階下へ運んで行く。
千浪さえ奪ってしまえば、もう、この照り返し戦術の用はないと、高笑いを洩らした与助、障子の間から鏡を引っ込めると同時に、その中庭の向う側の戸を立て切った。
しつこく追って来る光線から開放された出羽守が、やっと手を放して見ると、千浪の姿はもう室内になく、面前には伴大次郎の女髪兼安が、ぴたり、微動もせずに突きつけられている。
「お眼は癒りましたかな。」
大次郎は笑って、
「ただ今斬りつけようと思えば、難なく一刀の許に、今ごろ殿は胴、首ところを異にしておりましたろう。だが、ああいう邪魔があっては、勝負が面白うない。このとおり刀を引いてお待ちしておりました。今はもう容赦はない。参りますぞ。」
静かな大次郎の声に、ぞっと冷たいものを感ずると同時に出羽守は、もはやこの血戦は免れないと感じたらしく、
「さ、来い!」
と大刀を構え直した。
その刹那に!
法外流の名誉、下谷の小鬼といわれた伴大次郎である。いきなり真向から女髪兼安を躍らせて、刀と身体が一つになって斬り込んで行く。
「うむ! これはできる!」
感心したように叫んだ出羽守は、ちゃりいん! 女髪兼安を横に受け流すが早いか、ひらり身をかわして――二人、今は場所を取り換えて、大次郎が今まで出羽のいた壁際に、そして、出羽は、いま大次の立っていた場所に、双方とも青眼に構えで動かない。
動かない。
動かない。
千浪を下へ抱き下ろして、若い者たちに手当てを命じておいた文珠屋佐吉は、すぐさまこの二階の「梅」へ駈け上がって来たが、部屋へはいろうとして、敷居際に立ち停った佐吉、びっくりしてしまった。
もうこうなると、どっちがどっちともわからないので。
同じ弥四郎頭巾、同じ白衣に賽ころの紋、背恰好も肉付きも完全に同じだし、頭巾のなかから覗いている眼も、この真剣に、同じように赤く血走っている。
が、自分が階下へ下りる時、祖父江出羽は壁際によろめいていたのだから、今もその壁際にいるのが出羽であろうと、佐吉は脇差を閃めかして、室内へ踏み込むと――。
それと見た出羽守、声を励まして、
「おお、来たか。こいつをここに追いつめておる。お前は横から廻って、二人で斬り伏せよう。」
紛らわしいのを幸い、こう佐吉をごまかして、味方に引き入れようとする。その声も伴大次郎にそっくりなので、佐吉はそう思い込んで、出羽と並んで大次へ斬尖を向けたが。
その時、その出羽だとばかり思っていた、部屋の隅の白覆面が、
「煩!」
と叫んだ。
はっと気のついた佐吉、
「悩!」
と答えるより早く、振りかぶった刀をそのまま、さっと横手に、並んで立っている出羽守の肩先へ斬り下ろしたから堪らない。
「ぼん!」と「のう!」とは妙な掛け声があったものだと、ちょっと不思議に思っていた出羽守、つまりそこに隙があったと言うのだろう。おまけに味方に引き入れたとばかり信じていた人間が、相手へ向けようとした刀で、いきなり、こっちを払ったのだから――肩先を押えた出羽守、あっと横へすっ飛んで、
「な、何をする。おれは大次郎だぞ。出羽はこいつだ!」
その押えた肩から、花のような赤い血が、白絹の紋付きをさっと染めて。
まんじ乱れ
合言葉でわかってはいるものの、佐吉は瞬間、ほんとにこっちが大次郎で、向うが出羽、自分は早合点から盟友を傷つけたのではなかったかと、彼ははっとした。
が、とたんに 大次郎が、その女髪兼安を振りかぶって、出羽守へ迫った。
が、受け流した出羽、斬り返したその一刀は、見事外されて、踏み応えようとしていた大次の肩をかする。大次郎の肩にも、ぱっと血が吹き出た。
どっちも右の肩をやられて、同じように血が出ている。それが左右に縦横に、飛びちがえての乱戦なので、こうなると佐吉、どれがどれだか、もうさっぱりわからず、したがって、刀をふるって斬りつけようにも、見当がつかない。
脇差を下げて、二人の廻りをうろうろするばかり。
こういう時こそ、例の合言葉と、
「煩!」
と呼ばると、
「悩!」
「悩!」
二人の弥四郎頭巾が、二人一緒に佐吉のほうを向いて大声に答える。
なんだか知らないが、さっき「ぼん!」と「のう!」との二つの言葉から、この宿屋の亭主が向うへついたので、そういうおまじないでもあるのかと思った出羽守は、それからは佐吉が「煩!」とやるとすぐ大次郎より先に、大声に「悩!」と答えるので、これでは合言葉が合言葉にならない。
佐吉はますますまごつくばかりだ。
そればかりか出羽守は、今度は自分から、
「ぼん!」
と佐吉へ向ってさかんに呼びかける。
そこで佐吉が、
「悩!」
と答えて、そのもう一人の白頭巾へ斬ってかかると、そっちは大次郎なのだから、
「おい、おい、おれは伴だよ、出羽は向うだ。」
とあわてて呼ばわる。そうすると出羽守が、
「冗談じゃない。大次郎はおれだ。出羽はそっちだ! そっちだ!」
佐吉は、部屋の隅にぺたんと坐って、腕組みをして考えこんでしまった。
なんだか知らないが、馬鹿に利き目のあるおまじないだと、出羽守はさかんに、
「ぼん! ぼん! ぼん!」
と叫びながら、懸命に大次郎へ斬り込んで行く。
もう大次郎も真剣である。
刃と刃が軋《きし》み合い、火を吹くような息が絡んで「梅」の間の乱闘は、しばし続いた。
が!
どういう隙があったのか、この白頭巾の一人が、ひらり縁へ飛び出したかと思うと、
「出羽を押えろ、おれは下の千浪をちょっと見て来る。」
と佐吉へ言い残したと思うと、そのまま廊下を小走りに、階下へ下りて行った。
ぼんやり坐って剣闘を眺めていた佐吉が、はっと我れに返ったように見ると、もう一人の弥四郎頭巾が先に出て行った一人の後を追って、これもいま部屋を飛び出そうとしているから、佐吉は、
「己れっ! 出羽! やるものか。」
とその男の足へしっかり抱きついた。
抱きつかれた白覆面は、大狼狽、
「おい、文珠屋、何をする。おれは大次郎だ、俺だ。出羽は今逃げて行ったじゃないか。」
「何を言やあがる。手前は出羽だ。ややこしくて頭が痛くならあ。」
「何を馬鹿なことを言う。離せ、離してくれ。出羽が逃げてしまうじゃないか。」
「だから、逃げねえように、おれがこうして押さえているのだ。」
「おい、佐吉。感ちがいをしてくれるな。おれだよ。」
と大次郎が、ひょいと頭巾を撥ね上げて顔を見せると、一目見上げた佐吉、なるほど正真正銘の伴大次郎なので、あっと手を離すが早いか、
「さては、今出て行ったのが出羽だった
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