のか、畜生っ!」
 叫ぶより早く、梯子段を駈け下りて、階下へ来て見ると、その出羽守が、
「うん、いや、何、あの女連れの侍は、ここの主人に押さえられておるよ。おれはちょっとそこまで、ははははは。」
 と呑気に笑って、大勢の男衆や与助に送られて文珠屋を立ち出るところだ。これは、後から来た親分の同伴《つれ》と、すっかり思い込んでいるので、与助などは、背後からぺこぺこお辞儀をしながら、
「そうですか、うまく親分が押さえつけてくれましたか。あっしはね、急に思いついて、向うの部屋から鏡を使ってあいつの眼を眩ましてやりましたので、へへへへへへ。」
「いや、大手柄、大手柄。あれが味方にとって大助りであったぞ。さらばじゃ。」
 大勢に送られて、出羽守は、ぶらりと、文珠屋を出て行った。
「馬鹿野郎、そいつを押さえろ、逃がすなっ!」
 文珠屋佐吉は上り框に立って、大声にどなったが、その時はもう、出羽守の姿は向うの町角に消えていた。
 伴大次郎も出羽守のほうを諦めて、千浪を看病に下りて来ていた。

     断愛恋

 千浪はすぐに息を吹き返したが、気がつきそうだと見ると、伴大次郎はその文珠屋の奥座敷をそっと出て、縁の物蔭へ佐吉を呼び出し、
「拙者は、あの千浪に顔を見せたくないのだ。拙者のために、また千浪のために――おれはもう、千浪の前に現われないほうがいいのだ。で、これからあの討ち洩らした出羽を狙って、拙者はもう一度江戸の町をうろつくつもりだ。」
「それは大次、どういうわけだ。あの千浪さまはお前の女房で、今日もお前を慕ってあちこち探し歩きそのために、あの出羽をお前と間違えて、ここへ連れ込まれたくらい――それほどお前に焦《こが》れているものを――。」
「いや、言うてくれるな。」
 その大次郎の眼に、素早く涙が宿って、
「おれとても、あれを憎からず思ってはおる。憎からず思うどころか、いつどこにおっても、あれのことが頭を離れんぐらいに、おれは千浪を思いつめているのだが――あれの幸福を願えばこそ、あれと別れておらねばならぬ。」
「それはいったいどういうわけだ。」
 急き込んで訊く文珠屋佐吉の手を、しっかり握り締めて、
「その理由は、訊いてくれるな。一つには、あの祖父江出羽守という仇敵をもつ身が、千浪と恋に落ちたのが、そもそもの間違いであった。いかに思い合ったればとて、世の常の夫婦のごとく、安穏に共に暮らせるものではなかったのだ。出羽を討つにしろ、また討たれるにしろ、早晩千浪に歎きを見せるは必定――それを思えばこそ――。」
 と大次郎は、またちょっと頭巾の端を撥ね上げて、その別人のように変った顔を佐吉に見せながら、
「かように面貌が一変いたしたのを幸い――幸いと言うよりも、それをきっかけに、まるで心まで変ったように見せかけて、愛想づかしをして道場を出て来たのが、千浪は、あんなに辛く当ったおれを、こうして探し歩いてくれるのだ。江上、察してくれ。」
 その大次郎の心中を思って、江上佐助の文珠屋佐吉、隠れ名、煩悩小僧は、その生まれながらの醜い顔に涙を浮かべたのだったが、ややあって大次郎は、
「だからおれは、もう一度風に吹かれて街をさ迷う。千浪は道場へ帰ってもいたし方あるまい。どうだ、佐吉、迷惑は重々察するが、しばし千浪をこの家に預ってはくれまいか。」
 言われた時に佐吉は、あんなに恋い焦れていたこの千浪が親友伴大次郎のれっきとした妻であったことを知ると同時に、隠しようもない失望と共に、また、この大次と千浪のためにできるだけのことをしようという、清い新しい決心が湧いて来て、
「承知した。千浪さんのことは、おれが引き受けたから、安心していてもらいたい。」
「大次郎さま! 大次郎様!」
 意識を取り戻そうとして、まだ千浪は、夢の境からハッキリ覚めきらないと見える。
 その時室内から、良人《つま》を呼ぶ彼女の声が細々と、二人の耳へ洩れて聞えて来る。
 その己が身を慕って呼ぶ恋妻千浪の声を聞いた時に、それを振りきって出て行こうとする伴大次郎の心は、どんなであったろう!
 飽きも飽かれもせぬ仲を、復讐と、彼女の幸福のために、哀恋の糸を自ら絶ち切って武士なればこそ、辛い大次郎ではあった。
 佐吉は声を忍ばせて、
「それじゃあ行くか。いま言ったとおり、おれが預かったからにゃあ、大事な客人として誰にも指一本指させるこっちゃあねえ。安心していなせえよ。」
「思わぬ苦労で、千浪は身体が弱っておるらしい。充分ともに気をつけてやってくれ。」
 と捨て行く妻の身を案じて、なおも佐吉にくれぐれも頼んだのち、白覆面の煩悩児伴大次郎、白衣の懐手の袂をぽんと背後に撥ねたかと思うと、
「ではいずれ――。」
 飄然として、この伝馬町の旅籠文珠屋を後にした。
 煩悩の女髪を宿す右近三郎兼安の朱鞘に、暮れゆく陽ざしを赤々と照り返して。
 こうして、文珠屋佐吉は、あれほど恋い慕っていた千浪様を己が家に置くこととなったが、それと同時に彼佐吉、千浪に対する煩悩をさらりと捨てて――こう心気一転すれば、さっぱりした文珠屋である。親友の妻と奉って、千浪様々、下へも置かない持てなし、男だけで女のいないのを売り物にしていた宿屋だけに、この美しい客人は、番頭、小僧をはじめ、下男たちも大喜びで、一にも千浪様、二にも千浪さま。
 奥まった一室を与えられた千浪、まるで文珠屋の女王のように、主人佐吉をはじめ、一同に大事に侍《かしず》かれていた。

     裏おもて隠れ里

「あらッ!」
 叫んだのは、恋慕流し宗七の妻お多喜だ。深川やぐら下の小意気な宗七の住居で。
「あれ、お前さん、小信さんがいないじゃないか。」
 と言う声に、その一間きりの柱にもたれて、ぼんやり物思いに耽っていた宗七は、眼を上げてあたりを見廻した。
 なるほど、この家へ引き取って以来、ずっと毎日、起きている間は、必ずそこの部屋の隅にうつ向いていた小信の姿がいま見えないのである。
 宗七は、考えごとに気を取られていて、いつ小信が家を出たとも知らなかったが、ちょっと用たしに行ったお多喜がいま帰って来ると、格子を開けて土間へはいると同時に、そう驚きの声をあげたわけ。
「うん、いねえなあ。そう言えばさっき、土間へ下りてうろうろしていたようでもあったが――。」
「何を言ってるんだよ。お前さん。そんな呑気なことを言ってちゃあ、困るじゃあないか。弟さんの大次郎様とやらから、ああして大事にお預かりしている小信さん、気が狂って、まとまった考えがないんだもの。そこらをうろうろして、変な間違いでも起されたら、大次郎様に申訳がないじゃあないか。」
「うん、それはそうだ。なに、遠くへは行くめえ。お前、ちょっくら町内を一廻りして、探して来ちゃあくれめえか。
「あいさ、岡っ引の女房だもの、お安い御用だよ、ほほほ。」
 怒るだけ怒ってしまうと、きさくなお多喜は呑気に笑って、からころ溝板を鳴らして、路地を出て行った様子。
 あとで宗七は、また物思いに耽るのだった。
 煩悩を背負って、三つに別れて下山した自分と、大次郎と江上佐助と。
 爾来自分は女色煩悩を追って、この江戸の色街で文字どおり恋慕流しの流れの生活を送ったままいまのお多喜と一緒になって、表面は街の夜を賑わす恋慕流しの宗七だが。
 またその裏面は、いつからともなくあの八丁堀の与力、川俣伊予之進に見込まれて、十手を預かる御用聞きとなってはいるが。
 だが、表裏いずれとも宗七の心を離れないのは、あの田万里を亡ぼした出羽守に対する復讐である。煩悩に対するに煩悩をもってする――という建前《たてまえ》から、自分は女色煩悩を漁って来たのだが、それすらをすべて解脱《げだつ》した宗七に、たった一つ残っている煩悩の二字は? それは、いま言った出羽への復讐!
 こう考えてくると、復讐そのものが一つの煩悩かもしれなかった。
「つまるところ人間は、煩悩に生まれて煩悩に死ぬ。これだけは煩悩ではないつもりでも、こうやって思いつめているだけで、それがすでに煩悩の一つかもしれねえ。」
 伴大次郎は、ああして祖父江出羽と同じ服装で、いま町をさまよっている。四、五日前にここへ訪ねて来て、小信にも会ったが、気の狂っている小信が、実の弟を目のあたりに見ても、気のついた顔もしなかったのに不思議はない。悲しみのうちに大次郎は、なおも小信の身を宗七夫婦に頼んで、またどこともなく立ち去ったのだったが――。それに、あの文珠屋佐吉――煩悩小僧の正体を知っているものは、自分一人なのだが、金の煩悩のために盗みを働くとわかっているだけに、やぐら下の宗七も、出羽を首にするまでは、煩悩小僧は挙げられねえ。
 だが、その後では?――佐吉も喜んでおいらの繩にかかるとは言っているが、だが、友達の身に、この捕り繩を当てることができようか――。
 あわただしい跫音が路地を飛んで来て、格子のそとからお多喜の声、
「ちょいと、お前さん! 大変だよ! 大変だよ! 出て来ておくれってば!」
「何でえ、騒々しい!」
 舌打ちをしながらも、やぐら下の宗七、のそりと起ち上がっていた。

     居合抜き俄芸人

「さあ、お立ち会い! これだけの観物《みもの》は、お主らが金を山と積んだところで、金輪際《こんりんざい》、拝める代物じゃあない。拙者もこうして大道に立って、芸を切り売りしたくはないのだが、そこがそれ、農工商の上《かみ》などと威張ってみたところで、どうせ同じ人間様だ。食わなきゃあ生きちゃいられねえ。ところが禄を離れてみると、強いようでも弱いのが侍だ。浪々の身で、この大道芸人――芸人の身で被《かぶ》りものは恐れ入るが、これも侍のつまらねえ見得《みえ》と、まず、この頭巾だけは許してもらいたい。さあさ、お立ち会い。いよいよ始める。」
 路端に立って大声にしゃべり立てているのは、例の白の弥四郎頭巾に白服の伴大次郎である。そのそばに、腰元のように装《つく》った派手な振袖の千浪が、高く結い上げた髪も重たげに、立っているのである。
 麗らかな日で、吹く風も寒くなく、江戸の空には鳶《とび》が舞っていた。
 深川やぐら下を少し富ヶ岡八幡に寄ったほうの横町で、稲荷の祠の前だ。この異形の侍と、若い美しい女に眼をとめて、好奇心に満ちた群集がぐるり取り巻いてわいわい言っている。
 お多喜が、引っ張るように宗七を促して連れて来たのは、ここだった。宗七は、その群集の外側に立って、じっと中を覗いている。
「大次郎様だね、お前さん。」
「うん、そうだ。あの美しい女子衆は、あれのお内儀の千浪様というのだが。」
 そう言いながら見廻すと、すこし離れた見物人のなかに、虚ろな小信の顔も見えるので、
「おい、小信さんはあすこにいるじゃあねえか。お前そっと背後に立って、この芸がすんだら、うちへ連れ帰るようにしねえ。」
「おや、ほんとにあすこにいるね。まあこれでわたしも安心したよ。」
 とお多喜は、そそくさとその見物人のなかの小信の背後へそっと寄って行く。
 群集看視のなかの大次郎は。
 当てもなく江戸の町を歩いたところで、いつまた祖父江出羽守に逢うともわからないし、それに、生きて行く生計《なりわい》も考えねばならぬ。
 かつまた、いつまでも妻の千浪を、のんべんだらりと文珠屋へ預けて置くのは、佐吉の好意に甘えすぎるようで、それも面白くないので、ああは言ったものの、一応千浪を引き取り、佐吉と相談の上で、大次がこの腕に覚えの居合い手品を始めたのだった。
 千浪は喜んで、一種独特、法外流門外不出の坐り方を大次郎に教わって、この相手を勤めることになったわけ。
 もはや会わぬつもりではあったが、ともに道場を出ている今は、そうまで堅く考えずともと、己れの恋を犠牲にした佐吉が懸命に仲に立って、こうして二人、恋慕流し宗七夫婦をそのままに、この大道芸は奇術駕籠《てじなかご》の辻芸人と落ちたのだった。始めから愛しきっている、大次郎の喜びもさることながら、やっと二人一緒に暮して行ける千浪の胸のときめきは、どんなであったろう。
 夢のような日のうちに、こうして江戸の町ま
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