会を窺っていた小信は、とうとう、今から三月ほど前の月のない夜中に、この江戸の下やしきの寝所で、思いあまって出羽守に斬りつけ、混雑に紛れて屋敷を逃亡したのだった。
 傷は、背中に深く一太刀――たいしたことはなかった。出羽は、平気だった。血の垂れる肩下へ手を廻し、立ち騒ぐ侍臣たちを制して、
「おれを斬るとは面白い女《やつ》、ははははは――。」
 と、いつものように、たかだかと哄笑《わらい》を噴き上げていたが。

     美しき残骸

 豪放なところのある出羽守である。捕まれば、女の命はないにきまっている。殺すのも不憫《ふびん》と思ったものか、逃がしてやるつもりだったのだろう。
「なんのこれしきのことに、騒ぐなっ!」
 家臣らを押さえている間に、小信は闇黒《やみ》を縫って庭伝いに屋敷を落ち延びたのだ。
 大名が寝所で妾に斬られた。人に話もできない。この噂が世上に拡まれば、殿様はもちろん、祖父江藩の名折れになるばかりか、公儀の耳に入ったとなると、ただではすまない。どのみち、いい物笑いの種を播くのは知れたことなので、小信を斬ればその評判も立ちやすいと、そこですべてを内証に葬る考えから、出羽守、
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