りはてて、お多喜がじっと女の顔を見つめると――。
 いま初めて気がついた。
 たましいの抜けた眼をして、顔ぜんたい、汗と砂ほこりにまみれてはいるが、狂女は、この深川の羽織衆の中にもそうたんとはあるまいと思われる美人で、白い膚、鈴を張ったような眼、じつに高貴な面ざしなのだ。
「どこの人だろう? まあ、可哀そうな――当分うちに置いて、世話をして上げてもいいけれど、知らせなかったと言われて、あとで恨まれてもつまらない。親兄弟はないのかしら。」
 お多喜が、狂女の顔を見つめて、こうした物思いに耽っているとき、土間に人かげがさした。
 見ると、宗七だ。
 宗七が、今ぶらりと帰って来たところだ。
 出る時着て行った浴衣が、すっかり旅に汚れて、どんよりと、疲れた顔をして立っている。
 一眼見るとお多喜は、狂女をそのままに、転がるように上り框《がまち》へにじり寄って、
「お前さん! なんだい、いまごろ、妙な顔をして帰って来てさ。」
 宗七は、お多喜の前へ出ると頭が上らないらしく、それに長らく家を明けた弱味もあるので、
「いま帰ったよ。」
「今帰ったよもなにもないもんだ。いったいどこへ行っていたのさ。」
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