女《かれ》は深く湯に浸かっている。十九の処女《おとめ》の裸形は、白く、青く湯のなかに伸びて、桜貝を並べたような足の爪だ。小さな花びらが流れ付いたと見える乳首である。うす桃色に上気した、くっきりと美しい顔が、魅されたように、いつまでも湯底を覗いている。
 耳の痛くなるような山の静寂《しじま》――。
 頭の上に覆いかぶさる深い木立ちは、いま、宵へ移ろうとして刻々に黒さを増し、空を屋根のこのいで湯の表は、高い夕雲の去来を宿して、いっそう深沈《しんちん》と冴《さ》え返ってくる。
 谷あいに群立つ岩のあいだに、一枚の小鏡を置いたよう――落葉松《からまつ》、白樺、杉、柏、などの高山のみどりを縫って、ほのかな湯の香が立ち迷い、うえの尾根を行く人には、この沢壺《さわつぼ》の湯は、茶碗の底を指さすように眼に入るのである。
 だが、旅人の通る道すじではない。
 ましてこの夕ぐれ時、父の法外《ほうがい》も、あの大次郎様も、この上の森かげのたった一軒の湯の宿――それも、宿屋とは名ばかりの藤屋で、夕餉《ゆうげ》の膳を前に自分の帰りを待っているだけで、今どきこの湯つぼへ下りて来る人はあるまいと、千浪は安心して、惜
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