真下の猿の湯に千浪の裸体《はだか》をさんざん眺めあきたかれ佐吉、ふたたびかるく枝をゆすぶって、元の小径へとんと[#「とんと」に傍点]跳びかえると、
「いい女だなあ。どうやら、山の娘っこじゃあねえらしいぜ。おいらの面さえ、こんな化けものでなかったら――。」
 と心から口のなかで呟いたが、恐ろしいことに触れたようにぶるぶると口びるを鳴らして、かれはさっさと歩き出していた。葛籠笠の奥ふかく、にたり、にたりと蒼い微笑を洩らしながら。
 谷について一町ばかり上ると、こんもりした森の向うに、小さな家の集団《かたまり》が見える。阿弥陀沢の部落である。なかに、庄屋づくりの白壁の家が、一軒しかない。旅籠藤屋なのだ。
 ここへ泊るのだろうと思いのほか、文珠屋は、村の入口から道をかえて、不意に横へきれた。
 胸を突く小坂が、まっすぐ、宵やみの雑木林の奥へ消えている。三国ヶ嶽の登山ぐちである。
 これから上に、家はない。
 この夕方から夜みちをかけて、文珠屋佐吉、三国ヶ嶽へのぼろうというのだろうか。
 なにしろ――。
 そして、この文珠屋とは何者?
 間もなく、佐吉のつづら笠は、あみだ沢の家々を遠く下に見て、三里の上りを、三国一点の頂上をさしてすたすた[#「すたすた」に傍点]いそいでいた。
 さながら、空ゆく風――疾《はや》い足だ。

     第二の葛籠笠

 斬り傷、金創の入湯客が多い。
 自然、人別あらための山役人の眼がきびしい。
 山奥ながら、宿屋とあれば、藤屋も宿帳を一冊備えて、――この宿帳に。
 半月ほど前に名を記して、今だにずっと滞在している三人づれの江戸の客というのは、
[#ここから3字下げ]
下谷練塀小路《したやねりべいこうじ》 法外流剣法道場主
         弓削法外《ゆげほうがい》 六十三歳
    同人娘    千浪《ちなみ》 十九歳
    法外門人 伴大次郎《ばんだいじろう》 二十七歳
[#ここで字下げ終わり]
「ほんとうにお父さまは、どうしてこんな淋しいところに、こうしていつまでもいらっしゃるのかしら――。」
 黒ずんできている湯だ。湯気が白く眼立つ。もうすっかり暮れてしまったのに、千浪は上ろうともせず、腰から上を湯のうえに見せて、天然の湯船をなしている岸の巌に、凭《よ》りかかって立っている。
 江戸育ちで、千浪は、賑やかなところが懐しいのだった。
 また、口のうちにひとり言を噛みしめて、
「大次郎さまはこのお山に、何か御用がおありだという話のようだけれど、お父さまは、いったいいつ江戸へお発《た》ちになるおつもりなのだろう。」
 うす闇の迫る温泉《いでゆ》のなかに、じぶんのからだが、ほのぼのと白く浮き出て見える。
 もう墨を溶《と》かしたような湯なのだが手に掬《すく》い上げて見ると、空の余映を受けて岩清水《いわしみず》のように明るいのである。上半身に残光を浴びて、千浪は、両手に湯をすくってはこぼしいつまでも無心に戯《たわむ》れているのだった。
 猿《ましら》のようなつづら笠の男――文珠屋佐吉が、つい今し方まで、高い真上の木の枝から、こっそり自分の裸形を見下ろしていたことなどは、千浪、もとより知るよしもなかったので。
 裸に憑入《みい》る魔の葛籠笠と、この凶精《きょうせい》に取っつかれた美しい処女《むすめ》と――。
 ばしゃ、ばしゃと湯の音が、暮れなずむ谷あいの森閑《しんかん》とした空気を破る。
 千浪が、上り支度をはじめたのだ。
 小さな波をつくって湯がうごくと、底に立っている彼女《かれ》の足が、くの字を幾つもつづけたように、ゆら、ゆらと砕《くだ》け揺れる。
「お猿が怪我をすると、何十里ものお山を伝わっても、この阿弥陀沢のお湯へはいって癒しに来るという。いつかも、負傷《ておい》の子猿を伴れた親猿が、この近所の木に棲《す》んで、何日もお湯へはいっていたという里の人のはなしだった。だから、いつのころからともなく猿の湯と呼び慣らわしてきたのだとのこと。それで、お猿が入浴《はい》っている時は、人間は遠慮して、できるだけ邪魔をしないのだそうな。」
 と思い出した千浪は、今にも猿が来はしまいかと、急に恐ろしくなって、いそいで湯壺を出た。
 人の見る眼はないが、むすめ十九、裸身《はだかみ》を屈ませて小走りに、素早く岩かげへ廻ると、何の設備《しつらえ》もないとは言え、女性の浴客のために建てられたささやかな脱衣場がある――竹を立て、莚《むしろ》をめぐらしたほんの掘立小屋。
 ここへはいって、すぐ大きな矢羽《やばね》の着物に帯を廻した千浪は、
「まあ、いつの間にか、こんなに暗くなってしまって。ほんとに、わたしとしたことが気の強い。さぞお父様や大次郎さまが御心配のことでしょう。」
 七月の初めではあるが、山は、夏を知らない。生乾《なまかわ
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