》きの脛《はぎ》に袷《あわせ》の裾をさばいて、うねうねとした黒土の小道を、上の森陰の部落をさしていっさんに上って行った。
 剣を取って江戸を風靡《ふうび》する弓削法外先生のひとり娘である。夜みちを怖いとは思わないが――。
 すると、この時だ。
 一ぽんの路を下りてくる多人数の跫音。
 手拭いをぶら提げた丸腰の侍たちで、だいぶ前から藤屋の下座敷に陣取って、連日連夜騒いでいる連中である。
 わるいところへ悪いやつらが――とは思ったが、すっとすれ違おうとすると、まっ先に立った一人が、藤屋とあるぶらぶら提灯を千浪の顔へ突きつけて、
「いよう! べっぴん! や、磨いた、みがいた。」
 ぷんと酒の香がする。
「惜しいことをしたわい。もう一足早ければ、これなる菩薩《ぼさつ》のお臍が拝めたものを。わっはっは。」
 また、ひとりが、
「いや、じつに尤物《ゆうぶつ》! 拙者は、送り狼の役を買って藤屋まで引っ返そう。」
 下婢《げび》た笑いと揶揄《やゆ》のなかを、耳を覆った気で潜りぬけ、やっと藤屋へ走りこんだ千浪が、裾をおさえて梯子段を駈け上って、二階の部屋の障子をひらくと――。
「長湯じゃったな。いま見させにやろうかと思っておったところじゃ。」
 高弟の伴大次郎と何か話しこんでいた父、法外が、しずかに首を向けて千浪を見上げた。
 大次郎は、女とも見まごう整った顔に、若わかしい笑みを浮かべて、
「いま階下の連中が、大騒ぎして湯へ下りて行きましたが、そこらでお会いになりませんでしたか。」
 が、答える先に、千浪の眼は、部屋の隅に置いてある一つのまあたらしいつづら笠に止まった。
 山でかぶる葛籠笠。
 千浪は、見るみる顔をかがやかして、
「まあ! では、いよいよ江戸へ発《た》ちますことに決まりましたんでございますか。」
 でも、三人旅に笠が一つとは――?
 大次郎が、にこやかに答えていた。
「いや、わたくし一人です。ぜひ今夜のうちに三国ヶ嶽へ登る用がありまして、今、宿の者に命じてその笠を取り寄せましたので――。」

     女鹿男鹿

 それから数刻の後。
 膳部を下げた藤屋の二階には、江戸ものには珍しい丸行燈《まるあんどん》のともし灯をなかに、法外、大次郎、千浪の三人が、五徳《ごとく》の脚形に三つにひらいて坐っていた。
 山の庄屋のやしきをそのままに、旅籠《はたご》とはいっても、なんの手も入れてない八畳の座敷だ。
 年代の山の霧に黒ずんだ建具に、燈りが、赧茶《あかちゃ》けた畳の目を照らして、法外老人の大きな影法師を、床の間から壁へかけて黒ぐろと倒している。
「ほほう。すると、七年目ごとにその三人が、この三国ヶ嶽の頂上で落ち合って、その後の身のありさまを語りあおうと言うのじゃな。ふふむ、そりゃおおいに面白いぞ。」
 円明流から分派して自流を樹《た》て、江戸下谷は練塀小路に、天心法外流の町道場をひらいている弓削法外、柿いろ無地の小袖に、同じ割羽織を重ね、うなずくたびに、合惣《がっそう》にとりあげた銀髪が、ゆさゆさと揺れる。
 法外有法《ほうがいほうあり》――の語から取って法外と号し、流名もこれからきている。
 剃刀《かみそり》を想わせるほそ長い赭顔《しゃがん》に、眼の配りが尋常でないのは、さこそと思わせるものがあった。
「そりゃおおいに面白いて。」
 そう言って、じろり、大次郎を見やって笑ったが、眼だけは笑いに加わらない。
 法外先生の眼は、いつも鋭く凍っていて、かつて笑いというものを知らないのである。
 あけ放した二階縁の手すりに、近ぢかと迫って見える三国ヶ嶽のすがた――山気を孕《はら》んだ風が、濡れた布のように吹き込んできて、あんどんの灯をあおる。
 千浪が、そっと上眼づかいに大次郎を見あげて、
「どういうお話でございましょう。わたくしは、途中から伺いましたので、よくわかりませんけれど――。」
 大次郎は、優しい顔に似げなく額部《ひたい》の照りに面擦れを見せて、黒七子《くろななこ》紋付きの着流し、鍛え抜いた竹刀《しない》のように瘠せた上身を、ぐっと千浪のほうへ向けた。
「弱りましたな。これは、千浪さまにはお耳に入れたくなかったのですが――、御案じなさるといけませんから。」
「かまわぬ。話してやるがよい。」法外は、ちらと、若い二人を見くらべて、「遠からず大次郎を千浪の婿に、ははは、ま、仮祝言《かりしゅうげん》だけでも早うと考えておるわしの心中は、そちらも薄うす知ってであろう。いずれ夫婦《めおと》となるものならば、互いに苦も楽も、何もかも識り合うたがよい。」
 いつからともなく、命までもと深く慕い合っている大次郎と千浪――さきごろから父の許しで、今はいいなずけとなっている二人である。剣腕人物、ふたつながらに師のめがねに協《かな》って、やがてその一人むす
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