めを恋妻に、二代法外を名乗って弓削家へ養子にはいろうとしている伴大次郎と、おんなの誠心《まこと》のすべてを捧げて、かれを縋《すが》り迎えようとしている千浪と。
今度の旅に千浪を伴ったのも、父法外としては、人の世の蕾《つぼみ》のようなふたりの胸を察すると同時に、旅ともなれば気散じた朝夕に、もっと二人を近づけて、打ち解けて心を語らせ、たがいによく知り合わせたいという、父親らしい、大きな思いやりと気くばりからだったに相違ない。
この、法外老人の計らいは、恋しあう若人のうえに、どんなによろこびを齎《もたら》したことだったろう! そのあみだ沢へ来て以来、ふたりは雌鹿雄鹿のように、ほがらかに山をあるき廻って、心ゆくばかり語らい、よく気ごころを知り合って、いっそうたがいの思慕を深めたのだった。
そしてまた、法外にとって、この若い二人の睦《むつま》じい様ほどかれの老いたこころを慰め、ほほえませる絵はないのだ。
こうして、うつくしい健《すこや》かな千浪と、練塀小路の小鬼、美青年伴大次郎とは、男女の規《のり》を越えない潔い許婚の仲をつづけて来ている。
で、今日。
そして、いま。
だしぬけに父に、近く仮祝言でもといわれて、われにもなく頸すじまで真っ赤にしてさしうつ向いた千浪を、大次郎はいつにも増して好もしく、愛《いと》しく思いながら、
「じつは、私の身に秘めた大事なのですが――。」
と、口をひらいた。
夏といっても序の口なのに、高山《やま》の暦は早い。沈黙が部屋に落ちると、庭に取り入れたうら山々、しんしんと降るような虫の声。
とたんに、
「おう! あれを見さっしゃれ。三国さんの肩に、月が葛籠笠をかぶりおるわい。」
宿の男衆の大声が、階下の土間に湧く。
変なことをいうと思っていると、いあわせた土地の人が、つづいて覗きに出たらしく、
「わ、こりゃなんとしたことじゃい。皆の衆、出て見やれ。三国ヶ嶽のお月さんが、円ういつづら笠をお被《かぶ》りじゃぞえ。」
あとは、口ぐちに、
「月の笠じゃ。お山荒れの兆《しる》しじゃぞな。」
「ついぞないハッキリしたお被りものじゃが、えらい荒れにならねばよいて。」
「久しゅうお山がお静かじゃったが、あれで見ると、今夜のうちにもおいでじゃな。」
思わず耳をすました階上《うえ》の三人――。
重い夜風が部屋を走り抜ける中で、千浪は、何がなしにはっとした顔を上げて大次郎を凝視《みつ》めた。
猟くら悲誌
こんな山奥――三国ヶ嶽のふもとの阿弥陀沢に、猿の湯などという温泉のあることは、千浪はもとより、弓削法外も知らなかったので。
ここへ入湯に来ることを言いだしたのは、この門弟筆頭の伴大次郎なのだった。
しばらく暇を貰って三国ヶ嶽へ往ってきたい――下谷練塀小路の道場で、こういきなり大次郎が願い出た時、師の法外はちょっと考えて、わしも一しょにと膝をすすめた。そして、娘の千浪を連れて、と。
それならば、ちょうど、山のすぐ下に珍しい湯の宿があるから暫時《ざんじ》それに逗留《とうりゅう》なさるのも一興であろうと、この大次郎のことばに従って、道場は留守師範の高弟に預け、父娘師弟の三人づれ、そこはかと江戸を発《た》って来たわけ。
これが、もう、半つきほどまえのこと。
山中、暦日なし。
のんべんだらりと滞在して、山の宿屋めしにもあきてきたが。
元来法外は、じぶんもいささか旅にでも出て都塵《とじん》を洗いたい気持ちもあったし、それよりも、気らくな旅の起《お》き臥《ふ》しに、まず二人を親しませたい心づかいから、折から大次郎が言いだしたのを幸い、かれを案内に立ててあたふたと、ああしてこの深山《みやま》の湯へ分け入って来たのだけれど、そういつまでも江戸の道場を空けておくわけにもいかない。
きょうは帰ろう、明日は発とうと思うのだが、大次郎ここに何か目的《めあて》があるらしく、しきりにその日を待つようすで、いっかな腰を上げようともしない。
そのうちに、どうやら法外も山に根が生えた気味で、とうとう三人、今日まで藤屋に日を重ねてきたのだけれど。
その、大次郎の待つめあてとは何か。
第一、かれは、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な場所を知っていて、そして何しにここへ来、今まで動こうとしなかったのか――。「身許を包んでいたわけではありません。ただいま先生にも申し上げましたが、私は、この近所《きんぺん》の、山伏山のむこう側にあたる田万里《たまざと》というところの生れで――。」
眼の大きな、すっきりした顔を千浪へ向けて、伴大次郎が静かに語りだした。
「その村は、わたくしの一家は死に絶え、一村ことごとく離散して、今はあと形もありません。私としては、家ひとつない昔の部落《むら》あとにも、言いようのない懐しさを抱いてお
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