天の風呂の真うえに高く、自分こそまるで、猿のように、枝の繁みに身をかくして。
 そっと窺う文珠屋の顔が、葛籠笠の中で、にたりと笑った。
 はるか下に、岩のあいだに湯を使う山の人魚がある。
 三国ヶ嶽のふもとに、木樵《きこり》や猟人《かりうど》のみ知る無蓋自然の温泉《いでゆ》で、里の人は呼んで猿の湯という。
 富士も、ここまで来ると低い。
 靉靆《あいたい》たる暮色が、山伏、大洞、足柄の峰つづきに押し罩《こ》もって、さざなみ雲のうえに、瘤《こぶ》のように肩を出している宝永山の一面にだけ、相模潟の入り陽が、かっと照り映えていた。

     胸突き三里

 甲斐、駿河、相模と――三国が三角点に境を接している三国ヶ嶽。
 東はさがみの足柄郡《あしがらぐん》、西、するがの国|駿東郡《すんとうぐん》、そして、北は甲斐の都留郡《つるぐん》である。この三つの国が、富士の裾の籠坂峠《かごさかとうげ》から一線に延びる連山の一ばん高いてっぺんに出会ったところが、この三国ヶ嶽で、いうまでもなく、訪う人も深山《みやま》の奥だ。
 阿弥陀沢は、この三国ヶ嶽のすぐ下にある。朝夕、檐《のき》の端に富士を仰いで、春から夏を飛んで、すぐ秋虫の音を聞く山家住まい、あみだ沢は山あいに五、六軒の草葺《くさぶ》きが集《かた》まって炭焼き、黒水晶掘り、木こりにかりうど、賤機木綿《しずはたもめん》、枝朶細工《しだざいく》などを生業《なりわい》の、貧しい小部落だった。
 が、温泉《いでゆ》が出る。と言っても、部落から小半町下りた谷間の岩に。
 稀《たま》に、山越えの諸国担ぎ売りが宿をとるくらいのもので、もとより浴客《よっきゃく》などはないのだから、温泉とはいっても、沢の底の奇巌のあいだに噴き出るに任せ、溢《あふ》るるままに、ちょうど入浴《はい》りごろの加減のいい湯が、広やかに四季さまざまの山の相《すがた》をうつしているだけ、村びとは屋根ひとつ掛けず、なんらの手も加えていない。
 岩からいきなりあつい湯へ飛びこんで、鼻唄まじりに富士をあおごうという寸法。
 風流――などとは他国者のいうことで、遠国から旅をかけてわざわざ湯にはいりに来るものがあろうとは、阿弥陀沢の人は、何百年来誰ひとり考えてみたこともなかった。
 湯治《とうじ》などという語《ことば》は、あみだ沢にはないのだった。
 で、前の谷の猿の湯は、長いこと、猟人が峰づたいの山狩りの汗を洗い、炭やきが、煤煙《すすけ》を落すだけの場所だったが――それがこのごろ、遙か下の町の人々にも知れて来たとみえて、ぽつぽつ入湯の客が登山《のぼ》って来る。遠く、山にとっては外国のようなひびきを持つ、花の都のお江戸からさえも、といっても、月にふたりか三人の逗留客があるにすぎないが、それでも、上って来る者のあるのに不思議はないので、じつはこの猿の湯は、さながら神薬《しんやく》と言っていい霊験《れいげん》を有《も》っているのだ。
 きく。打ち身、切り傷にうそのようにきく。
 たいがいの金創《きんそう》は、三日の入浴で肉が盛り上り、五日で傷口がふさがり、七日でうす皮が張り、十日ですっぱり痛みが除《と》れて、十五日目には跡形もなく、一月もいれば、傷あとを打っても叩いても、何の痛痒《うずき》も感じないという。
 ことに、二つき三月とこの猿の湯に浸《つ》かりあげれば、年どしの季候の変り目に、思い出したようにふる傷が泣くということがない。
 別人のような達者なからだになって山を下りられる――と旅の者の口が披露《ひろ》めて、おのずから諸国へ散ったのであろう。この、幕運ようやく衰えかけて、天下なにとはなしに騒然たる時節である。肩から背へ大きく繃帯して、葛籠笠に顔を包み、山ふじの杖をつく武家すがた。賭場の喧嘩《でいり》で長脇差を喰らったらしいやくざ者など、そういった物凄い手傷者《ておい》が、世をはばかり気に爪さき上り、山へ、この阿弥陀沢へ、と志すのだった。
 相模から登る者は山北路。
 駿河路は、竹の下みちから所領《しょりょう》、中日向《なかひなた》とまわって、
 甲斐筋は、勘治村から道士川を越える。
 その誰もが、傷もつ身。世を忍ぶ面をかくして、山露をしのぐよすがのつづら笠――。
 猿の湯をとりまいて、三国ヶ嶽の麓に唄ができている。
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あみだ上りはみな葛籠笠、どれが様やら主じゃやら
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 で、杣《そま》しか通わなかった道に、湯治客の草鞋のあと繁《しげ》く、今は、阿弥陀沢村の一戸にまあたらしい白木の看板が掲がって――御湯宿、藤屋。
 内湯ではないから、客は、藤屋から山下駄をはいて、小みちづたいに、谷底の猿の湯まで下りるのである。
 だが――。
 文珠屋佐吉は、金創をもつ身体《からだ》ではない。
 桂の枝にぶら下がって、
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