ぜたような、傷だらけの顔に、硬い微笑をつくって、片手に女髪兼安を引っさげたなり、前のめりに、佐吉の前へ来て立った。
 いま文珠屋と言っている当年の江上佐助が、千浪を慕ってにわかに下山していることは、大次郎のあたまを去ったわけではないが、藤屋からあのお花畑までの途中、後にも前《さき》にも佐吉の影はなかったし、それに、佐助の佐吉が、こんな服装《なり》をしていようとは知らないから、大次郎は、行きずりの旅人と話しているつもりで。
「これが、眼に入らぬか。」
 手の、大刀を振って見せた。
「大次郎さま、わたくしどうなることかと――それに、藤屋に、残っているお父さまの傷が気がかりで、肩を深く――。」
 千浪が、気もそぞろに叫びながら文珠屋の手を離れて、大次郎のうしろに廻って立った。
「もはや大丈夫! これからすぐ藤屋へ引っかえしましょう。」
 言いながら大次郎は、きっと、眼のまえの葛籠笠を覗き見て――山越えのやくざ者らしいがなぜ口をきかぬ?
「下らぬ真似を致すな。見逃してつかわす。果報に思え。」
 言い捨てて、千浪を劬《いたわ》って立ち去ろうとすると、その大次郎の面前へ、文珠屋佐吉、すうっと脇差しを抜いて突き出した。
「おのれっ! やる気かっ!」
 きものは一面に切り裂かれて、襤褸《ぼろ》を下げたような大次郎、かっとなって、抜身の兼安を取り直そうとすると、途端に、かれの眼が相手のさし出している小刀の斬《き》っ尖《さき》にとまった。
 そこに、小さな刃こぼれが三つ並んでいるのは!――思い出す。
 田万里の幼年時代に、佐助がこの刀で、森の立木を出羽守に見立て、めったやたらに斬り廻った時の疵《きず》あとだ。
「おお、江上――!」
 思わず大次郎が叫んだ拍子に、そのわき差しをかざした文珠屋は、素早く、背後の沢へ身を躍らして――大次郎が駈け寄って、覗いた時、つづら笠と旅合羽は、傾斜に生えている木のあいだを、土煙りとともにずるずる踏みすべらして、谷底へいそいでいた。
 あいかわらず、江上は――身が軽い――それにしても、あの風体で、今はどこで何をしているのか――大次郎は、苦笑を洩らしながら、
「文珠屋どのと言ったな。また七年後に、このうえの三国ヶ嶽で会おう。」
 下へ向って、大きく叫んだ。
 山彦の答えに混じって、佐吉の声が、かすかに上って来た。
「なあに、それまでに、今度は江戸で会わあ。娘は預けとくぜ。」
「お知り合いの方なのでございますか。」
「ふふん。」と大次郎は、遙か眼下の沢へ笑って、千浪へ、「いや、なんでもござらぬ。先刻追うて来る途中、ちょっと道で逢うただけのことで――それより、先生が心配でござる。だいぶん重傷《ふかで》のようでしたが――さ、急ぎましょう。」
 二人は、手を取り合って、上の阿弥陀沢へ引っかえした。
 不覚にも、女髪兼安が手近になかったためか、そして、出羽の刀が四足の血に滑っていたせいか、法外先生の傷は、思ったより深かった。
 法外流を編みだした練塀小路の老先生が、あんなことで肩を割りつけられるようなことはないのだけれど――物の機《はず》みとでも言うのだろうか。
 金創に霊験あるはずの猿の湯も、法外先生の傷にはきかなかった。
 あの、白覆面の乱暴武士が、お猿さまを斬り殺したために、猿の湯は効能を失った――あみだ沢の里人は、ひそかにそう言い合ったが、事実そうなのかもしれない。
 秋が来て、満山の紅葉燃ゆるがごときころ、老体の弓削法外はこの傷が因《もと》で、千浪と大次郎に左右の手を取られながら、にっこりと寂しく、息を引き取ったのだった。
 それは、山々に秋が深まって、阿弥陀沢に霜柱の立った朝だった。

     転身異相画

 その法外先生が永遠《とわ》の眠りにつく時、枕辺の大次郎と千浪の手に、痩せ細った手を持ち添えて握らせ合い、
「改めて許す。今から、夫婦《めおと》じゃ。末長く、な。」
 千浪は、父の背に泣き伏して、大次郎の眼からも、大きな涙が、その、顔ぜんたい繃帯に包まれた上を滴り落ちる。
「泣くな、千浪。命数をまっとうして世を去るのが、なんで悲しいか――大次、女髪兼安と、道場を譲るぞ。千浪を頼む。道場を、な、道場をわしじゃと思って、盛り立てて行ってくれい。」
「先生! あの白の弥四郎頭巾の武士を、必ず捜しだして、きっと仇敵《かたき》を討ちます!」
「先生ではない。父と呼べ、父と――。」
「父上! お恨みは、この大次郎がきっと霽《は》らします。」
 女髪兼安の鍔を丁! と鳴らす。金打《きんちょう》して、耳もとに叫ぶと法外先生は微笑を洩らしたきり、それなり一言も口をひらかずに、逝《い》ったのだった。
 村人の手で、遺骸は荼毘《だび》に付した。お骨を捧げて、今日は明日は江戸の道場へ帰ろうと思いながら、大次郎の傷の癒えも進捗《はか》ば
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