かしくないので、二人はまだこうして、この猿の湯に逗留している。
なにしろ、手足に七カ所、胸に大きく一太刀、顔は、一ばんひどく、大小無数の斬り傷なので。
癒りが遅いのである。
床の間に、法外先生の遺骨を安置し、部屋の真ん中に寝床を敷ききりで、伴大次郎、毎日、寝たり起きたりしている。胸から手、足はもちろん、顔にもすっかり白い布を巻き包んでいるところは、あのいつぞやの白の弥四郎頭巾にそっくり――険しくなった双眼だけが、その繃帯の奥から覗いているのである。
夜など、この姿の大次郎にあの弥四郎頭巾を思い出して、千浪は、ひとり秘《ひ》そかにぞっとすることが多かった。
自分さえ、この七年目の会合に来なかったら、いや、じぶんは来ないわけにはいかなかったが、先生や千浪をお伴れしなかったならば、こんなことにはならなかったものを――そう考えると大次郎は、傷痕に錐《きり》を揉《も》み込まれるような思いで、一日に何度となく、床の間の骨壺へ掌を合わせる。
この自責の念が、夜となく昼となくかれを悩まして、自分で制しきれずに、焦々した気持ちになるのであろう。大次郎はこのごろ、人が変ったように、神経が尖《とが》り、千浪に対しても、以前とは打ってかわって、荒あらしい声を放つのだった。
顔じゅう繃帯に覆われ、月代《さかやき》は、百日鬘《ひゃくにちかずら》のように伸び放題。狂的に光りかがやく眼が、いつも凝然《じっ》と千浪を見守って。
彼女《かれ》は、われにもなく眼を外向《そむ》けながら、
「雪が降ります前に、下りなければなりませんと思いますけれど――。」
「けれど、なんです。こんな化物《ばけもの》のような顔になった拙者と、ともに、江戸へ帰らなければならないかと思うと、この山を出る気にはならないと言うのだろう。」
「あれ、またあなた、そんなことをおっしゃって、わたくしを困らせてばっかり――。」
「千浪。」
「はい。」
「きょうは顔の繃帯を取ってくれ。」
「は、い――でも、あの、あの――。」
大次郎の顔が、どんなに変相しているか、千浪はその恐ろしい事実を知っていて、顔の繃帯をとる日を、一日延ばしに延ばしてきたのだが――。
逡巡《ためら》っていると、癇走った大次郎の声で、
「取ってくれと言うに、なぜとらぬのだ。」
女とも見紛うた、ふくよかな美しい顔に、額部《ひたい》と言わず頬と言わず、ふかい刀痕が十字乱れに刻まれて、まるで打ち砕かれた鬼瓦のよう――とは、大次郎、知らないのである。
が、いくらか察してはいるらしい。
「繃帯を取ったとて、鏡を見るとは言わぬぞ。」
「あれ、またあんなことを――では、おとりいたします。」
もう、仕方がない。床の上に起き上っている大次郎の背後《うしろ》に廻って、膝を突いた千浪、観念して布の結び目を解きにかかると、
「待て。待ってくれ、千浪。」悲痛な大次郎の声で、「拙者の顔がどう変っておろうとも、大次郎を想ってくれるそなたの心にかわりはあるまいな。」
千浪は一生懸命に、
「なにをおっしゃります。千浪は、遊び女ではござりませぬ。お顔によって、つくす誠に違いがございましょうか。なんという情ないお言葉――。」
「よし! その口を忘れるな。解け!」
顫える千浪の手で、繃帯は、ひと巻き二まき、ほごされてゆく。
やがて、眼の上の凄い刀痕が、ちらと見えてきた。
大次郎は、つと手を上げて千浪の手を押さえて、
「ま、待て――待て、千浪! もう一度訊く。拙者の顔がどんなになっておろうと、そちのまごころは変らぬであろうな?」
「あれ、また! おことばとも覚えませぬ。千浪を、そのような女と思召しでござりますか。」
「ははははは、よろしい! 早く取れ、早く!」
わななく胸を押さえて千浪は懸命に、繃帯を巻き取る。早く! 早くと促されるままに、眼まぐるしいほど手を廻して。
眉が、片眼が、紫いろの、凹凸の中から、覗いてきていた。
江戸の巻――二人白衣――
足留め詣り
「いくら呑気だってほどがある。うちの宿六《やどろく》には呆れ返っちまう。これで十日あまりも冢を明けているんです。南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、どうぞ足どめをしてお返し下さいますように――。」
朝の七つ半刻、むらさき色の薄靄が暗黒《やみ》を追い払おうとして、八百八町の寺々の鐘、鶏の声、早出の青物の荷車――大江戸は、また新しい一日の活動にはいろうとして。
ここ深川、富ヶ岡八幡の社前に、おごそかに柏手を打ってしきりに何ごとか念じているのは、恋慕流しの宗七の妻、お多喜なので。
きれいに掃き清められた階《きざは》しの下にうずくまって、
「ほんとにほんとに、愛憎《あいそ》がつきてしまいますけれど、でも八幡さま、あれでも、あたしにとっては大事な人ですからね
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