と細かい音を立てた。
 猿の湯にいる江戸ものらしい女――千浪さまにきまっている!
「あの江上めが今は文珠屋と名乗って――うむ! こうしてはおられぬ。宗七、また七年後にここで、会おうぞ。」
 叫んだ大次郎、愛する千浪の危急を知って、いっさんにその三角形の山頂を駈け下り出した。ぼんやり呆気に取られて後見送っている宗七を残して――三里の下りを阿弥陀沢の藤屋へ。
 言いだしたらきかぬ江上佐助の気性、これはただごとでは納まるまいと、大次、走りながら、腰の女髪兼安の柄を叩いて、ぶつり、鯉口を切った。
 きらり! 鯉ぐち三寸、銀蛇のごとくきらめいて、眼を射る。そこに、何の焼刃《やいば》のみだれか、一ぽん女の毛が纏わりついたと見える鍛《きた》え疵《きず》。
 阿波の右近三郎打ち上げるところの女髪兼安。
 ゆうべ出がけに此刀《これ》を渡すとき、法外先生が言った――「くれぐれも言っておくが、大次、けっしてこの刀を抜いてはならぬぞ、抜けば血を見る。擾乱《じょうらん》を呼ぶ。刃元にうかぶ一線の乱れ焼刃。女髪剣、必ずともに、その女髪に心惹かれて、戯《たわむ》れにも鯉口を押し拡げるでないぞ。よいか。」
 その女髪兼安を伴大次郎、いま抜きかけて、ぱちんと鞘へ返したが。
 が、ハッキリと見てしまった女性《にょしょう》の髪の毛! 七年目、山上の会合が、こんな意外な展開を生もうとは!

     血煙お花畑

「かっ! この女は、貴様の何だと申すのだ。」
 山路主計が、柄がしらを叩いて、一、二歩、前へ出た。
 大次郎は黙って、手にしていたつづら笠を、ぽんとうしろへ投げやった。
「藤屋から後を尾けて来たのか。」
 それでも、大次郎は、答えない。眼が据わって、異様な光りが、出羽守の一行を睨め廻している。
「斬れ、斬れ!」
 誰かが、山路のうしろから、声をかけた。
「問答無益!」
 北伝八郎がおめいて、すらり長刀を引きぬきざま、主計と大次郎のあいだへ割り込んで来た。
「小僧っ! 来るかっ!」
 両手の指を失った川島与七郎は、一人が扶《たす》けて、七、八人の出羽守の一行である。
 出羽は、すこし離れたところに立って、相変らず白の弥四郎頭巾の中から、おそらくは面白そうに、伴大次郎を凝視《みつ》めている。その背後に、ふたりの武士に左右を押さえられて、千浪が、狂気のようにおろおろと立ちすくんでいるのだ。
 猿の湯をすこし相模のほうへ下りた途中の、山と山の間の広野である。こんなところで、何人の丹精《たんせい》で、こんな花園があるかと思われるくらい、地べた一めんに高山植物が花をつけて、ひろい野原に、赤、黄、むらさきと、一望に咲き揃っている眼も綾《あや》な自然の友禅模様《ゆうぜんもよう》――高い山にはよくあるお花ばたけなのである。
 三国ヶ嶽から藤屋へ駈け下りた大次郎は、法外先生が階下の白覆面のために、肩に重傷を負わされたのみか、その一行は、騒ぎに紛れて千浪をひっ攫《さら》い、急遽《きゅうきょ》袂《たもと》をつらねて下山の途についたと知るや否、腰間《こし》に躍る女髪兼安を抑えてただちにあとを踏み、今やっとこの中腹のお花畑へ、千浪をかこんで麓へいそぐ一同に追いついたところだ。
 江上佐助の文珠屋佐吉は、途中も気を配って捜して来たがどこにも見えない。
 そして、これが、眼ざす祖父江出羽守とは、大次郎知る術《すべ》もないが、養父同然の恩師法外先生のかたきではあり、いま目前に、千浪様を掴まえて伴れて去ろうとしている相手だから――大次、しずかに女髪兼安の鞘を払って、とうとう抜いた。
 出羽は、猿の湯の猿を殺して山に渦紋を招き、伴大次郎は禁制の女髪剣に陽の目を見せて、いよいよこの紛乱にいっそうの血しぶきをくれようとしている。
 きのうの宵、三国ヶ嶽の月が笠をかぶったのは、ただ、昨夜のお山荒れをだけ予言したのではなかった。この、人界の血の暴風雨と、それから捲き起る万丈の波瀾を警告したのではなかったろうか。
 そして、このすべては、善も悪も「煩悩」の二字が操るように人を動かして。
「まいるぞ。」
 しずかな声で、大次郎が言った。
 と、瞬間に、正面の北伝八郎を襲うと見せた大次郎、だっ! 横ざまに足を開いて、右手にいた一人へ片手なぐり――女髪兼安は、がっと聞える異妖なよろこびの叫びを揚げて、肉を咬《か》み、骨を削った。
 たら、たらと、女髪を伝わって鍔もとを舐める温かい人血。
「ふふん、こりゃそうとうできる!」
 中之郷東馬がそう言ってにやりとすると、大次郎も笑いながら、
「お賞《ほ》めにあずかって――それでは、次ぎは貴殿へゆこう。」
 くるりと、斬尖《きっさき》を東馬へ向けた。

     入道雲

 もう、伴大次郎は、伴大次郎ではなかった。下谷の小鬼だった。
 間もなく――一人ふたりと女髪兼安を
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