んな崩れ

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「いとど焦るる
 身はうき舟の
 浪に揺られて
 島磯千鳥
 れんれ、れれつれ
 れんれ、れれつれ。」
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 灯《ひ》の艶《なま》めかしい、江戸の花街《いろまち》で聞く恋慕流しを、この深山の奥で――大次郎は耳を疑いながら、弾かれたように三角石を離れて、神社の横の甲斐口へ向い、両手で声を囲んで、
「おうい!」
 突き上げて来る感激に、胸がふるえる。
 甲斐ぐちから登ってくるなら、有森利七に相違ないが、きゃつめ、女色煩悩を引き受けて七年むかしに山を下ったのだけれど――今この、灰《あく》の抜《ぬ》けた恋慕流しの咽喉《のど》から察するに、相当その道に苦労して、女という女を見事征服してきたに相違ない――。
 大次郎の口辺に、友へのなつかしさが微笑となって浮かんで、
「おうい――!」
 もう一度呼ばわると、唄声は、ぴたりと止んだ。
「有森ではないか。利七ではないか――伴だ! 大次だ。待っておったぞ。」
 神社の横手から熊笹の中を、だんだら下りの小径《こみち》が、はるか甲斐の国のほうへ落ちている。その降り口まで走り寄って大次郎が下を望むと、
「へっ! こりゃあ伴の若旦那で――どうも、あいすみやせん。長らくお待ちになりやしたか。」
 という声とともに、一人の町人体の若い男が、その小みちを上って来る。
 山がけの旅とも見えず、万筋《まんすじ》の浴衣一まい引っかけたきりで、小意気なようすに裾を端折り、手に、約束のつづら笠を下げているのだが――水の撥先をぱらり捌《さば》いた小銀杏《こいちょう》の髪に、鼻すじの通ったあお黒い顔、きりっと結んだ口、いかにもおんな好きのする面立ちは、忘れもしない、たしかにあの田万里で、一しょに小川の目高《めだか》を掬《すく》って幼い日を送った有森利七である。
 が、しかし、なんという変りよう!――着つけから身のこなし、ことばの調子、顔まで、もうすっかり町人――というよりも、芸人としか見えないのだ。ひとりの人間が七年間に、こんなに変りうるものかと思うくらい。
 懐しさが先に立って、大次郎はまだ、相手の変化に気がつかないらしく、
「おお利七! やっぱり来てくれたか。貴公も、この七年目の約束は、忘れなかったのだな。」
 と、登って来る利七に走りよって、手を取らんばかりにすると、
「いえ旦那、もったいない! ですけれどねえ、旦那、つまらない約束をしたばかりに、えらい目にあいやしたよ。途中でずっと降られどおしで、へへへへへ、御らんのとおり、ずぶ濡れの、ぬれ鼠の、濡れ仏ってんで。」
 大次郎は、はっとしたように、利七を見直した。
 たしかに利七には相違ないが、語調といい、顔つきといい、七年間の遊蕩《ゆうとう》に崩れきったらしい安芸人肌――きっとした大次郎の視線を受けても、利七は平気の平左で、がさがさと笹を鳴らして上って来ると、自分から先に中央の三角石の前へ行って、ばらり、裾を下ろして蹲踞《しゃが》みこんだ。葛籠笠をぽんと、傍らの地上へ投げ出して。
「おおしんど! なんてえことを、上方女なら、言うところでげす。さあ旦那、めえりやした。宗七はお約束どおり、立派に山へめえりやした。煮るなと焼くなと、わちきゃお前の心まかせじゃわいのう――とおいでなさいましたかね。」
 三角石に腰かけた大次郎は、呆れて相手を見下ろして、
「有森! 七年目だな。」
「へ? なるほど。ここで会うたが七年目、覚悟はよいか、でんでんでん――こりゃあ太棹《ふとざお》で、へへへへへ。」
「利七、真面目に話そうではないか。」
「利七? ははあ! 有森利七でげすかい。厭ですよ旦那、旦那もお人が悪い。そりゃあ昔のことで、今じゃ宗七――。」
「宗七?」
「へえ。れんぼ流しの宗七さんで。どうぞ御ひいきに――。」
「ふん!」大次郎は不愉快気に顔をしかめて、「変えたのは、名前だけではないようだな。貴公、心の芯《しん》から変ったようだな。」
 利七の宗七は、そぼ降る小雨のなかで、ぽんと一つ額部を叩いて、
「そ、そりゃ旦那、旦那の前ですが、女から女への七年間、いいかげん変りもしましょうさ。有森利七なんてえ野暮仁《やぼじん》は、もう、とっくのむかし死んだんで、ここにこうしておりますのは、吉原《なか》から遠く深川《たつみ》へかけて、おんなの子を泣かせる恋慕流しの宗七さま、へへへへへ。」
「見上げたものだ。」ふっと眼を外らした大次郎、「江上はいかがいたしたのであろう。あの佐助が、きょうの会合を忘れるはずはないが――。」
 と言った顔には、遣り場のない淋しさが、大きく描かれてあった。

     草の文

「さようでげすな。」
 宗七は軽薄な表情で、わざとらしくそこらを見まわしながら、
「あの江上の先生が、今日という日をすっぽかすわきゃ
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