衆へ、出羽守は、一喝をぶつけて、
「猿を斬ったがなんで悪い! さほどに思うなら、手厚く葬ってやれ。」
 どさりと、猿の屍骸を下男の顔へ投げつけておいて、出羽守は、家臣らの集まっている階段の根本へ。
 じろりと川島のようすを見ると、一眼ですべてを知ったらしい。
 そのまま、無言で梯子段を上って行くのだ。中之郷と山路が、すぐそれに続く。とっつきから弓削父娘の部屋で。
 出羽守、がらり障子を引き開けながら、
「おやじ、くどいようじゃが、また、娘を貰いに来た。」
 弥四郎頭巾の中からきらり、つめたい眼がきらめく。
 同時に、からだ一つ崩さずに、いま猿の血をなめたばかりの腰間《こし》の利剣が、音もなく、白く伸びて――法外先生は、たちまち肩口を押さえて、堂っ! とそこに倒れていた。
 女髪兼安が手にないために[#「手にないために」は底本では「手にないめに」]、法外、急に腕が鈍ったのか、それとも、猿を斬った出羽守の刀が、人間業以上の働きをしたのか。
 うっ! と呻いてのけ反る父へ、駈け寄ろうとする千浪は早くも、中之郷、山路の二人に、左右の手を取られて阻《はば》まれていた。
 お山荒れは、ふたたび勢いを盛り返して、雨と、風と、屋鳴りと――それのなかに、頭巾をゆさぶる出羽守の狂笑が、さながら猿のそれのように、高く、鋭く、つづいた。

     山頂恋慕流し

 谷に聳《そび》える露が、ひとつ一つ光り輝いて、まるで、無数の真珠を懸けつらねたよう――。
 濡れたみどりが、迫るように息づいて、草と土の香が爽かに立ち昇って、ひがしの空がうす紅いろに色づいて――東天紅《とうてんこう》を告げる鶏の声を聞くべく、あまりに里離れているけれど――雨のなかを、雨を衝いて登る太陽。
 あかつき。
 七年目の七月七日、明けの七つ刻に、三国ヶ嶽の山上、三国神社の前に、やがて匂やかな朝が来た。
 駿、甲、相の三国ざかいが、ここ小さな三角点に集って、ささやかな平地をなしているてっぺんである。
 三つの登り口が相会するところ――三国の鎮め三国神社の古びた祠《ほこら》は、この三角の地形の正面にある。
 左右は、底ぶかい渓谷で、杉、蝦夷松《えぞまつ》、柏などの大木が、釘を立てたように小さく低く覗かれる。だんだんと畝《うね》りを作って続く樹の海の向うに、大洞、足柄、山伏の山々――その山伏山のむこう側に、今はない田万里の廃墟があるので。
 灰色の雲の去来。それが、起伏する連峰をひと刷《は》けに押し包んで、山肌に、ところどころ陽が照っている――明方の日照り雨。
 雨は、まだ降っているのだ。お山荒れは、どうやら納まったらしいが、こまかい糠雨《ぬかあめ》が、山をひとつに抱いて、しとしと、しとしと、と。
 それに、時どき、風さえ横なぐりに――神社のまえの三角地の中央に、高さ一尺ほどの三角形の石が立っている。
 三国ヶ嶽国境の石なので、三角の面に、それぞれの方角へ向けて甲斐の国、するがの国、相模の国と彫ってある。
 いつの時代、何人の置いたものか、石は、千古の三国荒れに揉まれ抜いて三角の角は摩滅《まめつ》し、青苔が蒸して、彫ってある文字も定かではないが、三つの国は三つの線を描いて、この石のところで出合っているわけ。
 お社の、格子づくりの扉をぴったり閉じ、奉納の絵馬の一つふたつ――黙念として春風秋雨の七年間、この今朝の三人の会合を待っていたかのように。
 約束の場所である。伴大次郎と、江上佐助と有森利七と。
 起誓の三角石である。七年前に別れる時も、大次郎はこの石に腰うちかけて若い二人の友と話し込んだものだった。銘めい葛籠笠を引きつけて――。
 自然は、変らない。人事は走馬燈のように、あわただしく移りかわるが。
 七年の歳月は、当年二十歳の三人を二十七にし、伴大次郎を法外流の名誉、下谷の小鬼に変えた。そして今は、あの、この三里下の山腹、あみだ沢の藤屋に自分の帰りを待ち焦れているであろう千浪様というものを有つ身である。
 だが。
 変らないのは、石と木と草と、神社だけではない。
 大次郎もあのときと同じに、この国標の三角石に腰を据えて――七年のあいだ、ちっとも変らなかった景色に見える。
 待っているのだ。煩悩の他のふたつ、金と女を追って七年。前に下山した佐助と利七を――。
 来るかな? と思う。
 来る! くるにきまっている!
 と大次郎が、小雨を相手に独り言を洩らした時、勘治村《かんじむら》、道士川《どうしがわ》と越えてくる甲斐すじの登り口から、りょうりょうと一節の、何の煩悩もないような今時花恋慕流《いまはやりれんぼなが》しの唄声が、上がって来た。
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「君は五月雨《さみだれ》
 思わせぶりや
 いとど焦るる
 身は浮き舟の――。」
[#ここで字下げ終わり]

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