と――これにはおおいに事情《わけ》がなくてはならない。

     狂笑剣

 ど、ど、どうっ! と屋根を轟かし、この藤屋を揺すぶって、三国おろしが過ぎる。
 二つ三つそこここに立てた行燈の灯が、すうっと薄らいで、また、ぱっと燃え立つ。
 酒乱の中之郷東馬、山路主計らの赤い顔が、瞬間、朱盆のように浮き上って見える。
「さあ! 殿のお声掛りじゃ。天下晴れて娘を引き摺《ず》って来い。」
「君命、もだしがたし――か。」
 そんなことを言って、川島与七郎は、足早に階段を上って行く。
 さかずきを口に、誰かが、
「君命ときた。こういう君命なら、貴公、いつでも引き受けるだろう。」
 与七郎が、上から答えて、
「うむ。買って出たいところだ。あはははは。」
 と、すぐ階上では、与七郎が法外先生の部屋の障子を開けたらしく、何かごそごそ言い合う声が、かすかに聞えて来る。
 階下の座敷では、一同しばらく天井へ注意を集めて、聴耳を立てていたが、やがて、東馬が、
「だいぶ手間取るらしい。」
「そりゃそうじゃろう。なにしろ、見ず知らずの武士の娘を、酒席へ引っ張り出そうというのじゃからな。」
「なあに、老いぼれが一人くっついておるだけじゃ。ぐずぐず言えば、おれが行って、首根っこに繩をつけてひき下ろして来る。」
「しかし、世にも艶《あで》やかなる娘じゃわい。」
「彼娘《あれ》に眼をつけるとは、殿もまた、持病が出たらしいぞ。えらい騒ぎにならねばよいが――。」
「なにを、分別らしいことを言う。さわぎと申したところで、父親をひっ掴まえて谷間の杉へでも、吊るし斬りにしてしまえば、後はこっちのものではないか。」
「そうそう! 殿のおあまりを順に頂戴して、あはははは。」
 この一行は、もうかなり長く藤屋に滞在しているのだけれど、この乱暴に恐れをなして、宿の者は、誰も近づかないのだ。
 夜も、更けている。
 雨の音と、咆哮する風と――母家のほうはすっかり寝しずまったらしく、男衆が一人、そっと土間を片づけにかかっているだけ。すると、その時である――。
「江戸下谷、練塀小路、法外流剣法道場主、弓削法外の贈り物じゃ! ありがたく取っておけ!」
 梯子段《はしごだん》の上に大声がして、一同は振り仰ぐ。
 声がするのみ――声の主の姿や顔は見えないが、広間の連中、何事? といっせいに見上げた。その面上へ!
 ぱら、ぱらっ! と赤い、小さな物が降って来たので!
 皿へ落ちる。起ちかけた膝もとに転がる。髷に引っかかる。頬を打って飛ぶ――十本ばかりの、細い金魚のようなものだ。
「なんだ――!」
 と拾い上げて見る。指である。いま斬り離されたばかりの血に染《まみ》れた手の指が十本!
「うぬ!」
 酔いもなにも一時に醒めて押っ取り刀、わや、わや、わやと崩れ立った中之郷東馬、山路主計、ほか六、七人の異形の士《さむらい》、なかに、北伝八郎という素っ裸のさむらい、さらしの六尺に一本ぶっこんで、
「与七郎、やられたのかっ! おのれ――!」
 まっ先に階段を駈け上ろうとする――と! その頭の上へ落ちて来たのだ。川島与七郎が。血だらけの袖で、死人のように蒼褪《あおざ》めた色で、一段一だんと、弾みを打って。
「どうしたっ!」
 総勢取りかこむ。中之郷が、ぐったりしている川島のもとどりを掴んで、顔を引き上げる。と、どうだ! 額部《ひたい》に書いてあるのだ――「酒の肴に進上」と、墨黒ぐろ。
 両手の指はすっかり切り離され、血に染んだ摺《す》り古木《こぎ》のような、なんとも異妖なすがた!
 与七郎は、虫の息で、
「驚いた。恐ろしくできるおやじだ。一言いうと、黙って小刀が飛んで来て、ぱらり、十本の指が飛んだ。それから――それから、押さえつけられて、額部《ひたい》に墨で何か書かれたまでは覚えているが――。」
 二階は、しんとしている。
 暴風雨は、ちょっと小止《こや》みになって、一瞬間の不気味な静寂――階上には、法外父娘の部屋の障子に、ぼうっとあんどんの灯が滲んで人のいそうもない気配。
 呼吸《いき》を詰めて一同が、はっと階上《うえ》を見上げたせつなである。
「うわっ! こりゃ、なんとしたことじゃい! この猿の湯でお猿さまを斬り殺すとは――!」
 土間の男衆が、つん裂くような声で叫んだ。
 と、見る。片手に傘をさし、かた手に小さな猿の死骸をぶら下げた祖父江出羽守が、切戸を潜って、のそりとはいって来ている。
「畜生のくせに、湯へはいりに来おったから、一刀のもとに、このとおりじゃ。四足を斬った刀は、滅法切れると言うことじゃぞ、ははははは。」
「じゃが、旦那、殿さま、お猿さまは、この猿の湯の守り神で、あれは、お猿の湯へ人間が入れて貰っておるというくらい――ああ、こりゃ、とんだ崇りがなければよいが。」
 おろおろと立ち騒ぐ男
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