や、逸品《いっぴん》!」
「五月蠅《うるさ》いっ!」
 出羽守は、咬みつくように呶鳴って、すぐ、笑いを呑んだ冷い声を、階段の法外先生へ投げ上げた。
「おい、老《お》い耄《ぼ》れ! 娘を借りようかの。このとおり、野郎ばかりで埒《らち》の明かぬところ。酒の酌が所望じゃ――。」

     谷へ下りる番傘

 変に陰惨な声で、だしぬけに無礼なことを言うやつがあるので、法外は、思わずきっとなって、はしご段の中途に立ちどまった。
「お父さま、どうぞ相手にならずに。」
 千浪は、二、三段下から、必死に懇願して、押し上げるような手つきをする。
 じろっ! と、階下《した》の座敷を白眼《にら》み下ろしたまま、法外先生は無言である。
 柿色割羽織《かきいろわりばおり》の袖を、ぽんと、うしろへ撥ねて、悠然と梯子段を上りきった。
 逃げるようにつづいて、千浪が小刻みに駈け上る。
 戸外《そと》は、盥《たらい》の水を叩きつけるよう、轟《ごう》っ! と地を鳴り響かせて降りしきる山の豪雨である。まっ黒な風が横ざまに渦巻いて、百千の槍の穂尖《ほさき》を投げるような、太い、白く光る雨あし。
 三国ヶ嶽のお山荒れは、とうとう本物になりそう。
「馬鹿め!」
 吐き出すように言って、出羽守は起ち上った。
 川島与七郎が、
「のう、殿――。」
「与七! 殿とは禁句のはずじゃぞ。何じゃ。」
「あ、さようでございましたな。しかし、物も言わずに、ずいと上ってしまうとは、きゃつ、年寄り甲斐もない無礼なやつ!」
 誰かが傍から口を合わせて、
「なんでも、江戸の武芸者だとかいうことだが。」
 あとは、肩肘を張って口ぐちに、
「ふん、江戸の武芸者か。へん! 江戸にゃあ、武芸者と犬の糞は、箒で掃くほど転がってらあな。」
「あの若造は、娘と言い交した仲でもあるかな。それにしても、この大雨風の夜更けに、いずこへ出かけて行ったのだ。」
「そんなこたあどうでもいいや。」宿の浴衣の腕捲くりをした山路主計が、「それより、貴公たち、あのおやじにあのような扱いを受けて、黙って引っ込んでおる心算《つもり》か。」
「そうだ! どうあっても娘を呼んで来て、酒の相手をさせろ!」
「うむ! 男ばかりで飲んでおっても、とんと発しない。誰か行って、ちょっと娘を引っ張って来い。」
「ぜひとも下りて来て貰わにゃ、一同の顔が立たんぞ。」
「なあに、貴公の顔なんざ、ついぞ立っていた例《ためし》がねえ。いつも寝転んでやがら。」
「余計なことを言うな。おい、川島、貴様弁口が巧い。二階へ行って、娘を借りて来い。」
「よしきた。一つ、弁天様のお迎いに行くかな。」
 藤屋のどてらを素膚に引っかけた川島与七郎が、いつもの、古草鞋のような不得要領な顔で、気軽に腰を上げかけると、
「湯へ行ってまいる。」
 蒲団の上に突っ立って、何かぼんやり考えこんでいた出羽守が、いきなりそう言って、縁へ踏み出した。大刀を差したままである。湯へ行くにも、刀は離さないのだ。
 びっくりした一人が、
「ですが、この、雨の中を――。」
「黙っておれ。雨だとて仔細ない。湯へはいれば、どうせ濡れる。おい、手拭を取れ。」
 差し出した手拭を鷲掴みに、出羽守はぶらりと土間へ下りながら、
「一風呂浴びて来て、飲み直しじゃ。今夜《こよい》は徹宵《てっしょう》呑《や》るも面白かろう。湯から上って来るまでに、娘を伴れてきておけ。湯壺へは、誰も来るでないぞ。」
 いつも必ず真夜中に、ただ一人で猿の湯へはいりに行くのである。片手で番傘を振りひらいて、篠突く雨のなかへ、刀の鞘を袖で庇《かば》いつつ、出羽は、さっさと出て行った。
 二階には、この祖父江出羽守を仇敵《かたき》と狙う伴大次郎が、ものの半月も滞在していて、階下の座敷には、こうしてその当の出羽守が、遊び仲間のような取りまき連中を引き具して泊っている。四六時中《しょっちゅう》覆面して、深夜の入湯のほかはほとんど寝たきり、姿を見せることもないので、大次郎は気が付かなかったのだが、この奇《く》しき因縁は第二としても、遠州相良の城主、菊の間詰、二万八千石の祖父江出羽守が、いくらお忍びとはいえ、こうしてこの粗末な山の温泉に潜んでいるとは――!
 しかも、主従関係を隠し、供の連中などは変装同様のいでたちで。
 そして、面を覆って、それに、毎夜丑満を選んで入浴する。おまけに、湯へ人の来ることを厳禁して。
 一行は、殿様を朋輩あつかいに、酒を飲んで毎日騒いでいればいいのだから、退屈だが、大よろこび。しかし、湯は、金創にきく猿の湯である。こんな暴風雨《あらし》の晩も、欠かさず入浴《はい》りに行くところをみると。――
 さては、出羽守のからだは、秘すべき刀傷でも持っているのか。
 それはとにかく、この辺鄙《へんぴ》な山の湯と、二万八千石の大名
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