ておるかと言って、毎日のように千浪さまを責めるのだ。このごろの千浪さまは、なみだの乾くおりもなく、まことにお気の毒な様子だ。」
「が、大次郎先生のお身になってみれば、それも無理がないのう。」
「ほら、聞えるだろう。かすかに、千浪さまの泣き声が――ああまた、無理難題を持ち出されて、困っておられるのだ。」
じっさい、あたりを憚《はばか》る低い啜り泣きの声が、廊下つづきの母家のほうから、あるかなしに伝わり聞えて来るのだ。
その母家――奥の書院で。
大次郎改め、二代目伴法外が、血相を変えて縁に立ちはだかり、その足もとに、眉のあとも青い若妻千浪が、泣き濡れて倒れていた。
伴法外は、片方の眼の上、顎、頬、額と、その他顔じゅういたるところに大きな傷を負って、傷口はもはやふさがっているとはいうものの、昔日の美青年の面影はすこしもなく、じつに、見る人をしてぞっとさせる、恐ろしい顔つきである。
顔とともに、その性格も一変したに相違ない。この日ごろ、ことごとに荒あらしい言葉を吐いて、やさしい千浪を苦しめ、苛《さいな》むのである。
「いやいや、何と言っても、こんな顔になった大次郎を、そちが守り通してくれようとは思われぬ。また、こんな化物が傍におっては、その方も飯がまずいであろう。私は、自決を考えておる。」
千浪は、なみだの下から、
「またしても、そのようなことを――。」
「ええいっ! 言うな。そちはわしに鏡を見せんように気を配っておるが、今こそこの顔を見てやるぞ。」
言ったかと思うと大次郎の法外、そこの縁にあった洗面の金盥を両手に取り上げ、さっそく水かがみ――。
ハッキリ映って見える恐ろしい己が形相!
「ぷっ! かほどまでに変っておろうとは!」
庭石に、はったと金盥を投げ棄てた法外。
――その夜である。彼が道場をも妻をも捨てて家出したのは。
白絹の紋つきに白の弥四郎頭巾。女髪《にょはつ》兼安を腰に。
この時から、江戸の巷に、二人の祖父江出羽守が彷徨《ほうこう》することになった。
風過ぎ雁去って
一つには、この自分――千浪のために、また父法外の仇敵である、あの弥四郎頭巾の一団とお花畑で渡り合って、全身満面に刀痕を受けた伴大次郎、改め二代法外である。相変《そうがわ》りのしたのも自分のせいと思えば、その恐ろしい顔も、千浪は、眼に入らなかったのだが――。
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