りはてて、お多喜がじっと女の顔を見つめると――。
いま初めて気がついた。
たましいの抜けた眼をして、顔ぜんたい、汗と砂ほこりにまみれてはいるが、狂女は、この深川の羽織衆の中にもそうたんとはあるまいと思われる美人で、白い膚、鈴を張ったような眼、じつに高貴な面ざしなのだ。
「どこの人だろう? まあ、可哀そうな――当分うちに置いて、世話をして上げてもいいけれど、知らせなかったと言われて、あとで恨まれてもつまらない。親兄弟はないのかしら。」
お多喜が、狂女の顔を見つめて、こうした物思いに耽っているとき、土間に人かげがさした。
見ると、宗七だ。
宗七が、今ぶらりと帰って来たところだ。
出る時着て行った浴衣が、すっかり旅に汚れて、どんよりと、疲れた顔をして立っている。
一眼見るとお多喜は、狂女をそのままに、転がるように上り框《がまち》へにじり寄って、
「お前さん! なんだい、いまごろ、妙な顔をして帰って来てさ。」
宗七は、お多喜の前へ出ると頭が上らないらしく、それに長らく家を明けた弱味もあるので、
「いま帰ったよ。」
「今帰ったよもなにもないもんだ。いったいどこへ行っていたのさ。」
「山へ行って来たんだ。」
じっさい宗七は、いま三国ヶ嶽から帰ったところなのである。
が、何も知らないお多喜は、そんなことは頭《てん》から信じないので、
「山だって? 山とは何のことさ。ぶらりと家を出て、山へ行く人もないもんだ。いいかげん人を馬鹿にしたことを言うがいいよ。」
「しかし、そんなこと言ったって、真実、まったく、山へ行って来たんだからしようがねえ。」
「まあ、そんな詮議はあとでしてやるから、さっと上ったらいいじゃないか、じぶんの家じゃないの? 忘れたの?」
とお多喜は、口ではぽんぽん言いながらも、宗七が帰って来たことだけで、もうすっかりよろこんでいるようす。
足のほこりを払って上って来た宗七へ、
「お前さん、八丁堀の旦那から、毎日のようにお迎いだったよ。なんでも、またあの押込みが江戸中を荒らしだして――。」
「え?」
と言って、お多喜を振り返った宗七、それは、今までの宗七とは別人のように見えた。
女たらしのほかは能がなく、女房に頭が上らないと見えた恋慕流しの宗七――じつは、辰巳の岡っ引として、朱総《しゅぶさ》を預っては江戸に隠れもない捕物名人なので。
いま、八丁
前へ
次へ
全93ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング