お多喜は解せぬ面持ち、
「何を言ってるんですよ。寝言をいってるのかえ。」
 すると、女、犬のようにざかざか這って、縁の下を出て来たかと思うと、お多喜の前にすっくと起ち上って、
「ほほほほほ! あなたのお顔に、蝶々がとまっていますえ。」
 お多喜は、ぎょっとして飛び退《す》さった。
 女は、お多喜の顔とは別の方角へ、おろおろと落ちつかない眼を据えて、
「あれ、あれ! 蝶々が二つも! 女蝶男蝶! ほほほほほ――。」
 白い脛も露わに、よろよろと歩きだしてくる。さながら蝶を追うような舞いの手ぶりよろしく。
 保名狂乱《やすなきょうらん》――ではないが、女は、無残に狂っているのである。
 人品、言葉つきも卑しくなく、相当の生活《くらし》をした女に相違ないが、いくらか、これにはよほど深い事情がなくてはかなわぬとはいえ、なんという気の毒な――と、お多喜は、しばし宗七のことを忘れて、その狂女のありさまを打ち守るのであった。

     銀磨きお預り十手

 お参りに行って会ったのだから、これを助けるようにという神様のお示しであろうと、お多喜は、嫌がる女を伴れて、早々に櫓下の自宅へ帰って来た。
 格子をあけると、狭い土間の取っつきに、夏なので障子をとり払い、すだれが二枚、双幅のように掛かっている。
 宗七と二人きりの、小さな家で、雇人を置く生計《くらし》でも、身分でもない。
「さあ、あなた、ずっとお上り下さいまし。ずっとと申しても、この一部屋なんですけれど。」
 そう言ってお多喜は、女を抱きかかえるようにして上った。
 畳の焼けた六畳の間。壁に、三味線が一つ、ぶらりと下がっているので。
「あなたはほんとにここを、御自分のお家と思召して、ゆっくり寛《くつろ》いで下さいましね。」
 狂女は、わかったとみえて、お多喜のまえに横ずわりにすわって、ぼんやりとそこらを見まわしている。
「お名前は何とおっしゃいますの?」
 子供に言うように、お多喜はゆっくり話しかけてみたが、狂女はやはり答えないで、今度は、うつ向いて、さめざめと泣きだすのである。
 気ちがいだとは思っても、お多喜は呆気に取られながら、
「お宅はどちらですか。」
 もとより、通じようはずはない。
 自宅《うち》へは連れて来たものの、人手のないところへこのまま置くわけにはゆかず、それかと言って、抛りだすような無情なこともできなくて困
前へ 次へ
全93ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング