い刀痕が十字乱れに刻まれて、まるで打ち砕かれた鬼瓦のよう――とは、大次郎、知らないのである。
が、いくらか察してはいるらしい。
「繃帯を取ったとて、鏡を見るとは言わぬぞ。」
「あれ、またあんなことを――では、おとりいたします。」
もう、仕方がない。床の上に起き上っている大次郎の背後《うしろ》に廻って、膝を突いた千浪、観念して布の結び目を解きにかかると、
「待て。待ってくれ、千浪。」悲痛な大次郎の声で、「拙者の顔がどう変っておろうとも、大次郎を想ってくれるそなたの心にかわりはあるまいな。」
千浪は一生懸命に、
「なにをおっしゃります。千浪は、遊び女ではござりませぬ。お顔によって、つくす誠に違いがございましょうか。なんという情ないお言葉――。」
「よし! その口を忘れるな。解け!」
顫える千浪の手で、繃帯は、ひと巻き二まき、ほごされてゆく。
やがて、眼の上の凄い刀痕が、ちらと見えてきた。
大次郎は、つと手を上げて千浪の手を押さえて、
「ま、待て――待て、千浪! もう一度訊く。拙者の顔がどんなになっておろうと、そちのまごころは変らぬであろうな?」
「あれ、また! おことばとも覚えませぬ。千浪を、そのような女と思召しでござりますか。」
「ははははは、よろしい! 早く取れ、早く!」
わななく胸を押さえて千浪は懸命に、繃帯を巻き取る。早く! 早くと促されるままに、眼まぐるしいほど手を廻して。
眉が、片眼が、紫いろの、凹凸の中から、覗いてきていた。
江戸の巻――二人白衣――
足留め詣り
「いくら呑気だってほどがある。うちの宿六《やどろく》には呆れ返っちまう。これで十日あまりも冢を明けているんです。南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、どうぞ足どめをしてお返し下さいますように――。」
朝の七つ半刻、むらさき色の薄靄が暗黒《やみ》を追い払おうとして、八百八町の寺々の鐘、鶏の声、早出の青物の荷車――大江戸は、また新しい一日の活動にはいろうとして。
ここ深川、富ヶ岡八幡の社前に、おごそかに柏手を打ってしきりに何ごとか念じているのは、恋慕流しの宗七の妻、お多喜なので。
きれいに掃き清められた階《きざは》しの下にうずくまって、
「ほんとにほんとに、愛憎《あいそ》がつきてしまいますけれど、でも八幡さま、あれでも、あたしにとっては大事な人ですからね
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