なんざ、ついぞ立っていた例《ためし》がねえ。いつも寝転んでやがら。」
「余計なことを言うな。おい、川島、貴様弁口が巧い。二階へ行って、娘を借りて来い。」
「よしきた。一つ、弁天様のお迎いに行くかな。」
藤屋のどてらを素膚に引っかけた川島与七郎が、いつもの、古草鞋のような不得要領な顔で、気軽に腰を上げかけると、
「湯へ行ってまいる。」
蒲団の上に突っ立って、何かぼんやり考えこんでいた出羽守が、いきなりそう言って、縁へ踏み出した。大刀を差したままである。湯へ行くにも、刀は離さないのだ。
びっくりした一人が、
「ですが、この、雨の中を――。」
「黙っておれ。雨だとて仔細ない。湯へはいれば、どうせ濡れる。おい、手拭を取れ。」
差し出した手拭を鷲掴みに、出羽守はぶらりと土間へ下りながら、
「一風呂浴びて来て、飲み直しじゃ。今夜《こよい》は徹宵《てっしょう》呑《や》るも面白かろう。湯から上って来るまでに、娘を伴れてきておけ。湯壺へは、誰も来るでないぞ。」
いつも必ず真夜中に、ただ一人で猿の湯へはいりに行くのである。片手で番傘を振りひらいて、篠突く雨のなかへ、刀の鞘を袖で庇《かば》いつつ、出羽は、さっさと出て行った。
二階には、この祖父江出羽守を仇敵《かたき》と狙う伴大次郎が、ものの半月も滞在していて、階下の座敷には、こうしてその当の出羽守が、遊び仲間のような取りまき連中を引き具して泊っている。四六時中《しょっちゅう》覆面して、深夜の入湯のほかはほとんど寝たきり、姿を見せることもないので、大次郎は気が付かなかったのだが、この奇《く》しき因縁は第二としても、遠州相良の城主、菊の間詰、二万八千石の祖父江出羽守が、いくらお忍びとはいえ、こうしてこの粗末な山の温泉に潜んでいるとは――!
しかも、主従関係を隠し、供の連中などは変装同様のいでたちで。
そして、面を覆って、それに、毎夜丑満を選んで入浴する。おまけに、湯へ人の来ることを厳禁して。
一行は、殿様を朋輩あつかいに、酒を飲んで毎日騒いでいればいいのだから、退屈だが、大よろこび。しかし、湯は、金創にきく猿の湯である。こんな暴風雨《あらし》の晩も、欠かさず入浴《はい》りに行くところをみると。――
さては、出羽守のからだは、秘すべき刀傷でも持っているのか。
それはとにかく、この辺鄙《へんぴ》な山の湯と、二万八千石の大名
前へ
次へ
全93ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング