った。
「ほんとに、お察し――でも、今までおうち明け下さらなかったことが、なんだかお恨みのようにも――。」
 千浪のことばを遮って、法外老人は、
「伝奇稗史の類の暴君にもまさる。いや、さような大名がおるから、民の怨嗟《えんさ》を買うて、人心いよいよ幕府を離れ、葵《あおい》の影がうすらぐのじゃ。祖父江出羽は――あれは、藩地は、たしか遠州相良《えんしゅうさがら》――。」
「は。石高二万八千石、江戸の上屋敷は、神田一番原、御火除地《おひよけち》まえにござります。」
 そう答える大次郎の顔を、法外はじっと見据えて、
「大次――!」
「は。」
「そちは、なんじゃな。」――と法外先生、ぐっと声を落としてさし覗くように、「復讐を企ておるな、出羽に対して!」
「いや、これは先生のお言葉とも覚えませぬ。」大次郎は、あわてて、「いかに恨みに思えばとて、相手は一藩の主、手前は郷士上りの一武芸者、竜車《りゅうしゃ》に刃向う蟷螂《とうろう》のなんとやら、これでは、頭《てん》から芝居になりませぬ。あは、あはははは。」
 法外老人は、例の、冷やかな眼でにっこりして、
「隠すな、大次郎。」
 美しい顔を義憤に燃やして、千浪も傍から、
「おんなの口を挾む場合ではございませんが、及ばぬながらもお懲らしなさるが武士の意地――本懐とやらではないかと思われますけれど。」
 血の気が引いて、氷のように澄んだ大次郎の眼に、突然、大粒の涙がきていた。
「わたくしに、姉がひとりございました。ひとつ上で、当時二十一――柴刈り姿が出羽守のお眼にとまって、猟りの人数が下山のとき、お側に召されて引っさらわれました。今はもう生きておりますかどうか――。」
「えっ! お姉さまが!――まあ、そんなことまであったのでございますか。」千浪は、痛ましげに父に眼を移して、「でも今まで何年も道場にいらしって、そういうお身の上のことは少しもお話し下さらなかったことを思うと、なんでございますか、ねえ、お父さま、ほんとに水臭いような――。」

     桃の七年

 千浪のことばも耳に入らないらしく、大次郎は、物の怪のついたような静徹《せいてつ》な声だった。
「その姉を奪い返そうとして、父は単身行列へ斬り込んで一寸刻み――膾《なます》のような屍骸でした。今も、眼のまえに見えるようです。」
「あの、お父うえが――。」
 叫ぶようにいって、千浪は、
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