て来ても、ここから一歩も出すんじゃねえぞ。いいか――由公は、どうした。」
「由公はまだ帰りませんが、御一緒じゃなかったんで。」
「先へ帰してやったんだが、どこかで引っかかって油を売ってるんだろう。――おう、大次郎さん、それじゃあひとつ二階へ乗り込みやしょうか。」
びっくりしている与助を残し、佐吉が先に立って大次郎を促し、梯子段を上がりかけたが、
「待てよ。」
と大次郎を顧みた佐吉、
「お前さんもあの出羽守もどこからどこまで寸分違わねえ服装《なり》をしているんだから、斬り合いになって動き廻られると、どっちがどっちともおいらにゃあ区別がつかなくなるに相違ない。はて、どうしたものかな。」
「合言葉を決めよう。」
大次郎の言葉に佐吉は頷いて、
「うん、そうだ。だが、その合言葉は何とする。」
「煩と呼んだら、悩と答える。どうかな?」
「煩悩か――よかろう、面白い。」
そして二人は、七年前の田万里の時代に返ったように、にっこり笑顔を見合わせたが、それも束の間で、二人はすぐ緊張した面持ちで、跫音を忍ばせて二階へ――。
階下に残った与助は、すぐ二、三の男衆を呼び集めて、
「今ちょっと二階で騒ぎが持ち上がるかもしれねえ、お前たちに関係《かかわり》のあることじゃあねえから、があがあ音を上げて騒ぐんじゃあねえぞ。だが、他のお客さんに、お怪我があっちゃ申訳ねえから、そこんところはよく気をつけてくれ――おお定、お前は裏口を閉めて来い。構うことはねえから縁側の雨戸を立ててしまいねえ。表の大戸を下ろしちゃあ世間様が何かと思うから、まあここだけは開けておくとして、手前たちみんなここにいて、泊りの客が来たら、ちょっと取り込みがござんすからと言って断るんだ。」
男ばかりの世帯だから、こういう時は締めくくりがつきやすい。喧嘩だと聞いて、文珠屋の下男一同心張棒を持ち出す者、捻り鉢巻をする者、すっかり面白がって、わいわい言う騒ぎ――。
いずれを何れ二つ巴
長い廊下に部屋べやの障子がすっかり閉まって、しんとした静けさ――。
大次郎の先に立った文珠屋佐吉は、その廊下を進み、ぴたと足を停めたが、「梅」という部屋の前。
「ここだ。」
と言う目くばせを大次郎へ送ると、障子のなかでは祖父江出羽守、室外で跫音が停まった様子に、早くもそっと背後の床の間の大刀へそれとなく手を伸ばしながら、
「
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