てくれ。」
 そして、ぶらりと文珠屋を立ち出でて行った。
 もしこの時佐吉が、さっき宿を取ったという女伴れの奇態な武士のことを、いっそう詳しく与助に訊くか、また与助のほうから、この武士のことをもうすこしよく話しでもしたら、彼はこうして下谷へ出向かずに、この事件だけは、ここで手っ取り早く結末がついたであろうに――。
 勢い込んで出かけて行った佐吉と由公を見送った与助は上り口に立ったまま、じっと両手を組んで、梯子段の上へ耳をすました。
 と、いうのは。
 この時、二階の裏座敷、「梅」と名づけられた一室では――。
「うむ、よく来てくれた。いや、下谷の道場を出てから、拙者はずっとここに身を潜ませておったのです。どうだな? 珍しいところであろうがな。」
 出羽守はそう言って、弥四郎頭巾の間から、白い眼を光らせて千浪を見遣った。

     はぐれ鳥

 この文珠屋では、上等の客間なのであろう。八畳の座敷に三畳ほどの控えの間がついて、床には何か軸が掛かっている。
 その前に大胡坐をかいた祖父江出羽守は、前に坐っている千浪へ、ちらちらと視線を送りながら、上機嫌だった。
 秋に入って、照り続いた空模様は、どうやら今夜あたりから怪しいらしく、重い空気が暗い風となって吹き込んで来る。何か物売りの声が町を流して、この、日暮れ近い伝馬町は、江戸の代表のように、あわただしいのだった。
 着衣から頭巾、それに着物の紋まで、何から何まで寸分違わぬ伴大次郎と祖父江出羽守と――まだこの祖父江出羽守を、良人大次郎とばかり思い込んでいる千浪は、
「でも、ほんとに、よくあそこでお眼にかかれました。あなた様が道場をお出になってからというものは、私は毎日のように家を空けて、お姿を慕って、江戸の町々をお探し申しておりました。今日こうしてお目にかかることのできましたのも父と、それから女髪兼安《にょはつかねやす》の引き合わせではないかと存じます。」
 出羽は、頭巾のなかから不審気に、
「女髪何と仰せられたな? 何でござる、その、女髪云々というのは。」
「あれ!」と千浪はびっくりして、「あなた様は、あの女髪兼安のことをお忘れになったのでございますか。」
 と、出羽が腰から抜いて、背後へ置いた佩刀のほうへ首をさし伸べた。
 まごついた出羽が、
「おおそうであったな。うむ、この刀のこと、さよう、さよう。」
 大声に笑うと
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