だけの泊りでげしょうが、男も女も手ぶらでね、荷物ひとつ無えんです。それに、武士は頭巾を――。」
与助がそこまで言いかけた刹那、あの、日本橋詰の高札場から、千浪と白覆面の後を尾けて行った由公――承知の由公が、礫《つぶて》みたいに走り込んで来たかと思うと、そこの縁さきにぺしゃんと尻餅、馬鹿っ声を張り揚げたものだ。
「お! 親分! あ、会わす顔がねえ。晦《ま》かれた。見事にまかれた――。」
「げっ! あの白頭巾と娘を見失ったと?」
からり! 長煙管を抛り出して起ち上った佐吉、
「そうか。仕方がねえ。」
それだけ言うと、静かに背後へ手を伸ばして、茶箪笥の横に立てかけてあった脇差を取った。
「大次は、下谷の道場にいるとかいう噂だ。道場へ報せてやらざあなるめえ。下谷の練塀小路だ。由来い。」
いきなり歩き出そうとするから、由公はあわてて、
「ちょっと、親分、待っておくんなさい。」
「親分たあなんでえ。野中の一軒家じゃあねえや。お客様の聞えもあらあ。旦那と言いねえ。」
「へえ、旦那――じつは、十軒店から本銀町まであ、ちゃんとうしろから白眼《にら》んで行きましたんで。それが、あそこの角へかかりますと、ふっと消えちめえやがった。いや、あっしは面喰ったの、面くらわねえのって、すぐ横町へ飛び込んで、あの、時の鐘の下あたりをぐるぐる廻って捜しやしたが――。」
佐吉は、苦笑して、
「こりゃあ承知の由公にゃあ、ちっと荷が勝ち過ぎたようだ。そりゃあお前、甲賀流の霞跳《かすみと》びと言って、山あるき野歩きに、草一本ありゃア不意っと姿を消すといわれている妙法だあな。」
「あれっ! するてえと、あの武士はとんでもねえ化物なので。」
「馬鹿野郎、化物なりゃこそ手前に後を尾けさせたんじゃねえか。」
「どうも何とも申しわけがござんせん。」
しきりに、頭を掻いている由公を、佐吉はじろりと見下ろして、ずかり! 縁側へ踏み出した。
「はははは。承知の由公も、あんまり承知たあ言えねえな。今から承知の綽名を取り上げることにしよう。さ、ついて来い。」
話の筋道を知らない与助は、何とも口の出しようがないので黙っていたが、この時、出て行く佐吉の背後から声を掛けて、
「親分、どちらへいらっしゃるんで。」
「うん、ちょっと訳があってな。下谷の練塀小路の法外流の道場まで往って来る。由公を伴れて行くから、お前は留守をし
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