、かれ出羽ふっと話題を変えて、
「久し振りだのう。うう――何と言われたかな?」
「何とと申しまして。何がでございます。」
「そなたの名だ。」
「あっ!」
と、叫んで、千浪が逃げるように、思わず背後へ反った拍子に、ぬっと伸びて来た出羽の手が、彼女の手首へかかった。
「名なぞ何でもよい。山でそちを見かけた時分から――。」
はっと千浪は思い出して阿弥陀沢の猿の湯で、父法外を手にかけた後、自分を捕えて、あの山腹の花畑まで伴れて逃げた白覆面の武士!
あの人であったのか?
なんという不覚! と、彼女が飛び退こうとすると、出羽は片手で、ぐっと千浪を手許へ引き寄せながら、片手を弥四郎頭巾の裾へ掛けて、
「そちの慕うておる良人の顔を見せてやろうか。」
言いながら、さっと手早く頭巾を上げて、すぐに下ろした。初めて出羽守の顔をちらと見た千浪――そこに何を見たのか。
「あ、お許しなされて!」
叫ぶように言うなり、早くも彼女は、高い所から暗黒の中へ墜落して行くような気がして、もう、気を失いかけたのだった。
ちょうどこの時刻。
日本橋を神田のほうへ渡って、魚市場へ曲がろうとする角のところに、やくざ浪人とも見ゆる一団の武士達が、わいわい言いながら、あちこち見廻わして集まっていた。さっきそこまで一緒に来た主人を見失った山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、出羽守側近の面々である。
通りがかりの群集のなかへ、それぞれ眼を走らせながら、北伝八郎が、
「さっき、あの高札場のところまでは、先に立って歩いておられたのだが――。」
川島与七郎は、故法外先生に斬られた手はすっかり癒ったものの、両手の指が十本全部ないので、何があっても刀を抜くこともできない身体である。いつも懐手をして、傍観の役目なのだが、今も、両手を深く懐中へ押し込んだまま、
「しかし、人目につかれる服装《なり》をしておられるのだから、見失うというはずはない。またわれわれが主君のお供をしておって、はぐれたとあっては申しわけが立たぬ。」
「じつにどうも不思議だ。一同の前に立って、高札の前の人混みの中へはいって行かれるところまでは、たしかに拙者も見ておったが――。」
「うむ。この先が判然せんのだ。いつの間にか、ふっと姿を消されて――。」
そう誰かが言いかけた時、きょろきょろあたりを見廻わしていた中之郷東馬が、頓狂な大声
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