えば魚河岸。
魚がしといえば日本橋。
川のうえの魚ぶねは、その苫《とま》を魚鱗《うろこ》のように列ねて、橋桁の下も、また賑やかな街をつくっている。
雑沓を極める橋の上の往来。
諸侯の行列にはいくつとなく長柄の槍が立って、さながら移動する林のようである。武士、町人、諸職、僧侶、男、女、こども、さまざまの車と、駕籠乗物、下駄の音が秋空にひびいて、切れ目もなくあわただしい。
近海物の魚を積んで、船は躍るようにはいって来る。河幅が狭いから、その混雑はたいへんなもので。
おもかじ!
とりかじ!
どなりあう声、声、声――。
橋の前後、新場町と小田原町に、毎朝うお市場が立つ。
なまぐさい風が橋を撫でて、この二十七間、日本橋の南の袂は高札場、ちょうど蔵屋敷、砥石店の前である。
「大次様! 大次郎さま――。」
ひき裂くような声に呼びとめられて、大次郎は、ゆっくりと振り返った。
練塀小路の道場を出て、これで何日経ったか。
あのままの姿の大次郎、祖父江出羽守と寸分違わぬ雪白《せっぱく》の弥四郎頭巾、白い絹に、黒で賽ころの紋を置いた着流し――こげ茶献上をぐっと下目に、貝の口に結び、此刀《これ》があの女髪兼安なのであろう、塗りの剥げかかった朱鞘と、じぶんの蝋ざやの脇ざしとを、奇妙な一対に落し差して。
この大次郎、下谷を出て以来、今までここに潜んで何をしていたのか――。
ぶらりと来かかった高札の前である。
呼ぶ声に何もの? と見向いたかれのまえに立ったのは、残して来た若妻千浪の、眉のあとの青い顔ではないか。
あたりはいっぱいの群集だが、みな御高札をふり仰いでいて誰も気がつかない。
「や! そなたは何しにここへ――また、何の用ばしござって拙者に声をかけられたか。」
大次郎様にしては、すこし声が太過ぎるようだ――と、千浪は思ったけれど。
それに。
頭巾の中から覗いている鼻柱も、赤く高く、眼が暗く澱《よど》んでいるようではあるが。
何も気のつかない千浪は、
「大次郎様――。」
ともう一度、低声につぶやいて、そっとその白覆面白装束の武士に寄り添《そ》った。
この千浪は、
良人大次郎は家出したものの、自分を嫌い道場を厭って去ったものとは、どうしても思えなかったので。
お顔がああ変ってからというものは、事ごとに自分に辛く当って、まるで別人のように忌《いま》
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