わしい気立てになった大次郎ではあったけれど、あれは果して良人の本心だったろうかと、今にして千浪は、疑わざるを得ないのだった。
こう醜くなった自分に、良人として生涯仕えなければならないと努めている千浪を、いじらしく思って――千浪を自分から解放するために、ああ心にもない乱暴な言動をつづけて来て、あげくの果てに飛び出してしまわれたのではなかろうか。
つまり、千浪を愛すればこそ、千浪の一生を救うために、あの愛想づかしの末が家出ということになったに相違ないと、大次郎の出奔後、千浪は千々に思いを砕いた後、思いきって、こうして毎日江戸の町じゅうを、大次郎の影を求めて彷徨《さすら》い歩いて来たのであった。
千浪ゆえに荒んだ心になって、道場を棄てて巷へ出て行った良人――会って、縋って、泣いて頼んで、もとどおり練塀小路へ帰ってもらおう。
是が非でも、そうしなければ、死《な》くなった父上さま法外にも申訳がない。
そう思って。
と言うのは、この千浪、初恋の優しかった大次郎のおもかげを、夢に現《うつつ》に、忘れ得ないのだった。
真昼の狼
で、その大次郎をここの人混みで発見《みつ》けた千浪は、嬉しさにわれを忘れて、
「あれからずっとお探し申しておりましたが、運よくお眼にかかれて、わたくし――ささ、とにかく一応道場へお帰り下さいまし。千浪の心も、よっくお話し申し上げたいと存じますから。」
人の輪のすぐそとの立ちばなし。
高札に気を取られている群集の耳には、入らないらしい。
大次郎――と思われる人物は、その、弥四郎ずきんの中の眼を、かすかに笑わせて、千浪! さてはこの、あの猿の湯の藤屋にいた江戸の武芸者の娘は、千浪と言うのかと、ひとり合点《うなず》いた様子で、
「大次郎か。わしがその大次郎ということが、千浪殿にはよくおわかりになられたな。」
「はい。それはもう――。」
この江戸に。
白の弥四郎頭巾に白の紋つき――同じよそおいの伴大次郎が二人、あるいは、祖父江出羽守がふたり、さまよいあるいていることを、千浪は知っているはず、忘れるわけもないのだけれど、これと思う姿を人中に認めた喜びのあまり――千浪、この瞬間やはり忘れていたに相違ない。
恥らいを含んでそう言いながら、にっこり覆面を見上げると、
「さほどまでこの拙者を――かたじけない。千浪どのと伴れ立って道場とや
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