「へえ、じつあその、ちょっくら旅にね――。」
「ほんとに旦那。」お多喜が、手早く茶の支度にかかりながら口を入れて、「うんと油を絞ってやっておくんなさいましよ。さっきぶらりと、気が抜けたような顔をして帰ってまいりましてね、呆れ返るの雨蛙じゃアありませんか。」
「いや、お内儀《かみ》にさんざ叱られた後らしいから、おれあもう何も言うめえ。なに、おいらより、おかみの待ち焦れ方と言ったら――ははははは、なあ、お内儀、おめえ、ずんと痩せたようじゃあねえか。」
「あれま、旦那は相変らずお口の悪い。」
「なあに、里ごころがついて帰って来たんだ。思いきり可愛がってもらいねえ。」
「あんなことばっかり、ほほほ――どうぞ、ひと口お湿し下さいまし。」
 お多喜の差し出した茶を、伊予之進は、大きな音を立てて啜ってから、
「時に、宗七――。」
「へえ。」
「へえじゃあねえ。ぱっちりとこう、眼を開けな。またお前の出幕が廻って来たぜ。」
「とおっしゃいますと?」
「宗七様の帰りを待ちかねていたんだ。またあの、煩悩夜盗があちこちに出はじめた騒ぎでな。」
「では、あの、煩悩夜盗と名乗る押込みが、また、お膝下を荒しているんで――。」
「うむ。この七年間、われらを愚弄し抜いてまいった煩悩夜盗だ。きゃつのためには、お互いたびたび苦杯を舐めさせられたことは、覚えがあろう。江戸に岡っ引なしとまで言われて――それが、先ごろより、またもや暴れ出したのじゃ。」
「それは存じておりやすが――。」
 そう言って宗七は、じっと腕組をした。
 煩悩夜盗というのは。
 七年ほど前から深夜の江戸を荒らし出した怪盗で、警戒の厳重な富豪と言われる家のみを襲い、箱に入れて積んだ大金を担ぎ出して、しかも、何らの手がかりをも残さない。いや、手がかりといえば、いつも大きな手がかりがあるので――それは、この賊は押し入った家に、必ず「煩悩」の二字を書き残しているのである。
 それが、誰いうとなく煩悩夜盗の名を取った謂《いわ》れでもあるが。
 襖に、あるいは障子に、畳に、墨黒ぐろと大きな文字「煩悩」と――いつもきまって被害の現場に、雄渾な筆跡を揮《ふる》ってある。出張の役人、公儀、江戸中の人々を嘲るごとく、あわれむごとくに――。
 一度などは、日本橋の質屋へはいった時、文晁《ぶんちょう》の屏風いっぱいにこの煩悩の二字が殴り書に遺されてあった。
 
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