、通り魔が走るなどといいなしているが、それよりもいっそう不気味な時刻は、むしろこの、夜から昼に変ろうとする江戸の朝ぼらけ――大江戸という甍《いらか》の海が新しい一日の生活にその十二時の喜怒哀楽に眼覚めんとする今それは、眠っていた巨人が揺るぎ起きようとする姿にも似て、巷都《まち》を圧す静寂《しじま》の奥に、しんしんと底唸りを孕《はら》んでいるかに思われる。いわば、長夜の臥床《ふしど》からさめようとする直前、一段深く熟睡《うまい》に落ち込む瞬間がある。そうした払暁《あさ》のひとときだった。
 この耳に蝋を注ぎ込んだようなしずけさを破って、
「桜見よとて名をつけて、まず朝ざくら夕ざくら――、」例の勘弁勘次の胴間声《どうまごえ》が、合点長屋の露地に沸いた。「えい、えい、どうなと首尾して逢わしゃんせ、とくらあ。畜生め! 勘弁ならねえ。」
 綽名の由祖《ゆらい》の「勘弁ならねえ」を呶鳴り散らしている勘弁勘次――神田の伯母から歳暮《くれ》に貰った、というと人聞がいいがじつは無断借用といったところが真実らしい、浅黄に紺の、味噌漉し縞縮緬の女物の紙入れを素膚《すはだ》に、これだけは人柄の掴み絞りの三尺、
前へ 次へ
全36ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング